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噂の福岡博多南「ベンガル料理」が想像以上に美味で驚く


福岡市は知る人ぞ知るスパイスカレー王国と
いっても過言ではないくらいカレー屋さんが多い。

インドやネパール、スリランカにパキスタンなど
様々な国のしかも本場の味を食べれるお店があり
スパイスカレーファンにとってはよだれものの都市だ。

その福岡で新しくできた「ベンガル料理屋」さんが
あると聞き我慢ができずに旦那さんを誘って行ってきた。

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通り沿いにパッとわかりやすい
インドの国旗の屋根。

日本人の男性スタッフが
とても丁寧に案内・説明してくれた。

ランチは「ベジ」と「ノンベジ」セットがあり、
ベジの方は主に豆カレーと野菜、
ノンベジの方は豆カレーの他にチキンと魚の
カレーとのこと。 

メニューはその他にもとても豊富にあって
単品でも頼めるそう。

しかしその後私はそのあまりの
「美しさ」
におののいてしまった・・・。

まず旦那さんが頼んだ「ラッシー」。

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お、、おされすぎる。
こんなオシャンティーなラッシーを
生れてはじめて見た。

ローズのソースにピスタチオだそうで。

その後シェフが丁寧に
運んでくれたカレーたち。

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私のカメラ技術では伝えてきれてないと
正直思うのだが、とにかく「きれい・・」
っていう言葉が思わず出てしまう作り。

ただ単に盛り付けをきれいにしてる
という意味ではなく、とても
「丁寧に」
作っているという意味で。

そしてライス、ナン、ロティと
選べる主食ですが、

そもそも「ナン」って現地の人は
食べてないので。

ここはどうあっても「ロティ」。

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全粒粉のロティは身体にも優しい。
これは小さめでお上品でしたね。

ベンガル地方のカレーは、
お米と魚、野菜を多く使うのが特徴。

この日のランチのおさかなカレーも
めっちゃ柔らかくて美味しかったです。 

ぜひこのお店では魚介系を味わって
欲しいですね。

ほんとはランチの他に、
スイーツも頼みたかったのだけど、
お腹がいっぱいになってしまい、、、。

食べきれなかったものを
お持ち帰りに入れてもらいました。

そしてなんと私が手で食べていたのを
見てくださってて、食べ終わった頃、
これが。

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ああ、レモン水でさっぱりね♪

ではなく、、フィンガーボウル。

しかもですね。
「あたたかい」
お水(お湯といえばいいのだがw)なのです。

ちょうどよい温もりの
このレモン水にきゅん死する人が
出ないことを願います・・・・w 

お店の日本人の方は、
インドで日本食をマネジメントしているそうで、
現地の一流店でシェフをしていた

「彼らなら間違いない」

というシェフを日本へ呼び寄せて
お店を開いたのだとか。
(後でわかったけどシェフは2人ともムスリム)

あえて「日本に合わせて」ではなく、
あくまでも彼らが食べている
「ベンガル料理」
を紹介したいというこだわり。

ベンガル料理についてや
お店の情報はぜひHPなどを
見て見てくださいね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▼インディアンスパイスファクトリー
▼食べログ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あんまり美味しすぎるので、
速攻イベントをするべく予約しました♪ 

▼ベンガル料理で夜会♪ 

よかったらぜひ♪ 


おしまい 



by sarah_51 | 2019-01-30 18:23 | 福岡よかとこ情報   | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉖「苦悩・混乱と出会い」


改めて主治医から「来年はない」と言われた友。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/


長い長い数時間を過ごした後、
友には現実が待っていた。

ここにその「苦悩」の1つがある。

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この時、脳外科の医師は
脳転移が放射線治療によって
縮小したということで脳浮腫に使用していた
ステロイドの量を少しずつ減らしていくと言っていた。

でもリハビリの病院からもらっていた
残薬がまだあったため、
残っている薬を使って減らしていくという
ちょっと面倒な方法をとってしまった。

そして医師が1回ごとの薬を全部ひとまとめに
処方という形にしてくれているとよかったが、
残っている薬を一部使うということもあって、
自分でその量を調整しなくてはならなかった。

この頃の友は病状なのか、
それとも気持ちの不安定さゆえなのか、
細かい話がなかなか理解できないことがあった。

でも本人は、

「忘れていくのが怖い」
「忘れていることに気が付かないのが怖い」

と病状が進み物事を忘れてしまうことに
とても恐怖感をもっていた。

この日のノート。

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赤い字で、そして震える手で
書き記したこのノートから、

その不安と恐怖と
「ちゃんとしたい」
という友の気持ちが強く伝わってくる。

同じように手帳にも薬を1つずつ
赤字で書き込んでいた。

私は彼女が今後1人暮らしをしていく上で、
サポートが必要になることを
考えてはいたけれど、

でもこの調子だとかなりのサポートが
必要だな、、、と心配だった。

ところがだ。

友はいつも寸でのところで
どこからともなく救いがある人だった。

この日私は10月から急遽お手伝いすることになった
訪問看護ステーションに行った。

それも本当にびっくりする展開で、
ただお茶のみに遊びに行ったら、
その場で採用になったのだけど。。。

そして事務所で説明を受けた後、

ふと思って訪問看護師さんに、
友のことを話してみたのだ。

友は介護保険で支援が使える年齢ではない。
でも「がんの末期」という診断があると、
40代で介護保険が使えるのだ。

だからお薬の管理とか、
日々の不安や混乱に対して、
何かお願いできないかと思ったのだ。

するとなんと!
そこにいた別のベテラン看護師さんが、

「わたし以前耳の聴こえない方を担当してました」

というではないか。。。

しかも友の不安をまだ会ったこともないのに、
察してくださって。 

まずは本人に会って、
了承してもらえたら翌日からでも
お手伝いに入れますよ!

と言ってくれたのだ。
そしてリハビリに関しては、
私が担当すればいいじゃない?と。

ありがたかった。。
本当に。

早速私は介護保険の申請や
ケアマネさんを紹介してもらって
連絡やら主治医に指示書を書いてもらえるよう
ソーシャルワーカーさんへ連絡しよう。

そうしよう。

これで10月4日の引っ越しに
向けて準備して。

あともう一息で
友がずっとずっと待ってた、

「アトリエで曼荼羅を描く」

を叶えてあげられる。

友の苦悩と心配はあるものの、
ほんの少し友の生活の
安心が見えたようでまたがんばろうと
思えた1日だった。

そして翌朝私は友の決断に
さらに驚かされるのだった。

つづく 









by sarah_51 | 2019-01-29 18:58 | 医療と健康  | Comments(0)

友と私。していてよかった「生前整理」と頼んでよかった「遺品整理」


亡くなった耳の聴こえない1人暮らしの友。
葬式も終わって色々な処理をしていた私。

アパートの退去日が埋葬されてから
たった2週間後という速さでしなくてはならず。

それだけではなく、「遺留品」という中には、
私が扱いきれないものもあったわけで。

事前に見積りに通常部屋に入ってもらって、
それから契約→当日片付けになるんだけど、
そんな時間がなかったので、

とにかく1月15日にそのまますぐやってくれる
業者を探して依頼した。

私の頭の中に、何がどれくらいあって、
どれはどうして欲しいかは全部あった。 
なので申し込みの時点で見積りしてもらうことができた。

友の荷物は正直なんとかがんばれば
私と弥生さんとでどうにかなる量だった。

でもなぜそれを業者に頼んだのか。
理由はいろいろあるけど、

・「処分」するのが辛すぎるから。
・退去までの期間が迫りすぎだから。
・リサイクルショップでは扱えないものもあったから。
・安くあげる必要性はなかったから。

というのが大きな点かな。

処分が辛いっていうのは、
一旦仕分けに入った時、
薬とか、食べ残しとか、
汚れものとかは少しゴミ袋に入れたんですよね。

でもね。
ゴミ袋に入れていくの
けっこう心に応えるんですよ。

その点ベッドが介護保険で
レンタルしておいてほんとよかった。

ベッド見てね。
けっこう心が辛くなる人たちの話
聞いたことあったんですよね。
介護当事者の方から。

そこにまだいるような気がして、
とてもじゃないけど片付けが
進まないっていうのも聞いたし、

実際私の近しい人で、
奥さんが亡くなって何年もの間、
奥さんの部屋に入ることすら
できないままだった方がた。

それに友はすでに亡くなってる
お父さんの位牌とか、時計とかね。
遺品を持っていたりして。

でもそんなのリサイクルショップに
売り飛ばせないでしょう? 
ゴミにもできないし。

それに1つ1つ使えそうなものを
リサイクルショップにとやったとしても、
それで得たお金、どうするのって話ですよ。

自分のだったらそのお金で
ちょっとランチとか
帰りにお刺身買ってくかーとか
するかもだけど。

人のものだからね。
罪悪感でまくるでしょう?

ということで、
「遺留品処分業者」
に頼んで心底よかったです。

頼んでよかった理由は、

・片付けの間そこにいなくてよかった。
・捨てられていく様子を見ないで済んだ。
・貴重品や証明書など取り忘れてたやつもちゃんと
 見つけ出して渡してくれた。
・何もかもきれいにしてくれた。

というところでしょうか。 

ほんとあっという間にきれいになって。
友といっしょにアパート選ぶ前に
見に来た時と同じくらい。
きれいになって、もうそこには
友の香りも、面影も、何もなかった。

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まぁ引っ越して結局2か月半だったからね。
住んだのって。

でも明るくなったこの部屋を見て、
ああ、、よかったなと思った。

片づけをする前は、
モノが無くなって捨てていく様子を
想像するだけで、きっと号泣しちゃうんじゃないかって
思ってたんだけど。

全然泣かなかった。

そして弥生さんと心底、
「本当に」
やっておいてよかったね、、と
思ったのは、

「生前整理」

です。

このアパートに引っ越すために、
友の荷物は亡くなる3か月ちょっと前に、
一旦整理・処分してるんだよね。

その時はものすごーーーーい
荷物で、友もいろいろ捨てきれなくて。
あーだこーだいいながらも、
でも結局ばっさりと捨てた。

あの時整理してなかったら、
あの膨大な量の荷物を、
いくら遺留品処分会社にお願いするったって
すごい大変だったと思う。

だいたいこれはどうするのか、
これは残すものなのかとか
全然わからなかったと思うから。

残っていた衣服はだいたいあげたものか
最近買ったもので新しかったから、
着れるものは全て海外の支援に送ったし。

急に亡くなる人は仕方がないと思うけど、
もし何か余命がわかるような病気になったら、
自分もすぐ生前整理しようと思う。

残される人の負担を少しでも減らせるように。
そして自分の意志をそこに伝えられるだけの
量であるように。

押入れの奥の旅行バックから
友の宝箱がでてきて。

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開けたらそこには私がいたよ。

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なんだよ。
恥ずかしいじゃないか。

でもってこの奥には
友達が描いてくれた絵が入ってた。

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美しく描いてくれすぎだけども笑。

けっこう好かれてたんだなぁ友に。
特別聞いたことなかったから。

そして何より私と弥生さんは、
この遺品整理が終わった日から、

なんともまた不思議な感覚を感じたんだよね。 
また書きます。 

つづく。 


by sarah_51 | 2019-01-19 22:06 | 友と私。 | Comments(0)

友と私「葬儀の後で、、」


12月30日に亡くなり、翌31日に土葬された友。


想像してみてください。

家族ではない人の遺体をですよ。
洗ったりなんだり。

うなされそうですよね。

でも31日の夜私は久しぶりに不思議と
とても良く眠ったんです。

いっしょに色々手伝ってくれてた
弥生さんも同じことを言ってた。

私たちは友が亡くなる1週間以内は、
弥生さんはひどく頭痛がしてたらしく、
私はひどい悪夢や体が痛くて凝ってて
きつかった。

思えば友の辛さを3人でほんの少しだけど
分け合ってたのかしらと思うほど、
31日は良く寝れて。

ところが。

そこからがちょっと大変だった。

当然だけど元旦という気なんて全くしない。
初めて「おめでとうございます」の
「おめで、、、」でさえ言えなかった。
出てこないのだ。
出せないともいう。。。

SNSで流れているニューイヤーの
挨拶などが他国の遠い話のようだった。

その日は私たちにとって
「ただ葬式が終わった翌日」
というだけだったから。

だからゆっくり休もうと
思っていたけど、
すこし持ち帰っていた
友のカバンや巻いていたスカーフや
メガネなど。

匂いってすごくて、
どれもこれもが友の香りが強くて、
うちのものじゃないことがすごく感じる。

それだけに存在もぐっと入り込んでくる感じで
それが友が「見守ってくれてる」とか、
「そばにいてくれてる」なんて
生易しいものじゃない。

言葉に表現しがたい複雑な
気持ちにさせられ気持ちはとても重かった。

旦那さんの正月休みが元旦と2日だけで。
いつもなら旦那さんのばぁちゃんのお墓へ
行くんだけど。

その同じ墓に友も埋まっているわけで。
埋めたばかりの墓がちゃんとなっているか、
見ておきたい気持ちはもちろんあった。

だから旦那さんにも、
墓を見に行こうと話していたけど、
実はその言い方は、
「ばぁちゃんに会いに行こうかね、、」
だった。

友を見ておきたい。
でも身体が動けなかった。
見に行けない・・・。

何度となく旦那さんに
行くのか行かないのかと
聞かれたけど、結局私は
自分のこの行きたいけど行けない気持ちを
表現できないまま布団をかぶってしまった。

「飯はまだか」

という旦那さんの言葉にも、
「飯を食う意味があるのか」
とさえ思うほど、無意味で
何もしたくない気持ちだった。 

そしてもう1つ。

「暗がりが怖い」

という妙な感覚が出た。
トイレや洗面所、お風呂や
玄関など先に電気がついてないと
なんとなくゾッとする感覚があり、
ずっと電気をつけっぱなしにしていた。

弥生さんはこの時やっぱり同じような
感覚があったらしく、友がその暗がりで、
暗い顔してるような気がして怖かったと言ってた。

いやほんとだったらマジ怖いけど、
まぁそんなはずはないんだけども。

でも私にはまだやらないといけないことがあって。

・生活保護受給担当者へ連絡、先に入金されてた分の返納
・介護保険関連
・介護ベッドなどレンタル品の返却立ち合い 
・障碍者手帳
・年金
・看取った際の病院費の支払い
・アパートの大家・不動産屋へ連絡
・退去関連の事務的続き
・荷物の整理
・光熱費関連契約解除の連絡
・携帯電話

などなどなどなどで。

やらなくちゃいけないけど、
全然気が進まず。
幸だったのは正月で役所関係が
みんな休みだったこと。

それを理由に正月明けから
のんびりやるか・・・。

そう思ってたのだけど。

1月4日に生活保護・障碍者担当者から
電話連絡が入って。

この人はほんといい人で。
ほんとなら最後会わせてあげたかったけど、
役所が休みだったから連絡できなくて。

30分くらいだったろうか。

本当にゆっくりゆっくり、
友が亡くなるまでの生活のことや、
どんな風に過ごしてたのかとか。
看取りの時のことやその後のこととか。

いろいろ聞いてくれて、
励ますでもわざとらしく共感してますよっていう
頷きでもなく、自然にあれこれと話して。

それで私も色々な手続きを
私がどこまでするべきか。
どこからはもう家族ではないのでと
手放してもいいかなど相談してみた。

家族とは絶縁状態とはいえ家族はいるわけで。
でも友が「絶対連絡してくれるな」という
意志をこの方も立ち合いでしっかり聞いてたので、

本来は遺骨が残っていると
それをどうするかということで遺族に連絡が
いくらしい。でも今回友は遺骨がなく、
そのまま土葬だったので特に役所として
連絡する要件はないとのことだった。

残った家財は少ないけれどやはり遺留品だしということで、
遺留品処分業者に入ってもらうことに。

役所関係のことはたいていその方が
連絡をいれてくれてやってくれることになり、
私は一部返却物だけ持って行くだけで済んで。

もうその日のうちにやるか・・。

と思ってたら福祉用具会社さんから連絡もあって、
1月9日にベッドをもう取りに来るという。
大家さんは、退去日をもう連絡くれた
1月4日にして料金精算してくれるとかで。

1月15日には掃除終えて鍵置いておいてとか
優しいようなそんなすぐですかって感じになってしまい・・。

あぁ・・・部屋かぁ・・。

正直アパートが。。。。

1人で入りたいと思わなくて。
この気持ちはどうにも表現できない。

とにかく友の家に向かう道でさえも、
通りたくなくて、友といっしょに行ってた
スーパーも、友がよく買ってた肉とかおやつとかも
見るのもなんか、、、っていう感じで。

1月3日が本当は友の誕生日で、
亡くなった時は冗談で友が食べたいと言ってた
ケーキを買って食べよっかーとか
弥生さんと笑ってたのに、

2人ともとてもじゃないけど
友が好きだったものだなんて
見れませんよっていう状態になってて。

ケーキ屋を通るのも嫌だし、
見るのも当然嫌。
買うなんてとんでもないし、
なんかもう見たくない感じ。

そんな気持ちを私は弥生さんにも
伝えて、いっしょにアパート来て欲しいと
お願いして。

そしたら弥生さんも同じような
気持ちで過ごしてて。
あぁ、、、あるある。
あったあったなんて。
2人で言いながら、ベッドを回収してもらう間、
少し片づけをしたりして。

残すもの、送るもの、
片付けるもの(これはもう放置)を
ざっと選別だけしてその日は終わった。

会社勤務とかだったら身内で亡くなっても
忌引きは1週間くらいだろう。

そろそろどうにか動いてかないとねぇ。

なんて思いながら仕事は再開していた。
仕事があってよかったなぁ。

自宅へ訪問リハビリに行くんだけど、
同じ家に行くっていっても
当然だけど全然雰囲気はちがうし、

当たり前だけどみんな生きてるから、
あれやらこれやら色々しんどくて。

生きてる人をとりあえず大事に
しないとねなんて思いながら、
仕事して。なんとなく食べて。
ブログ書いてちょっと気持ち整理して。

でもやっぱり話がしたくて、
弥生さんを誘ってランチに行って。

友の話だけじゃなくて
あれこれいろんな話して。

それが少しよかったなと思う。
同じ体験をした人と気持ちを共有して、
であとはたわいない話。

で迎えた1月15日。

あらかじめ調べて予約してた
遺留品処分業者さん。
なんとですね・・。

すげーイケメン来たんですwww 

一旦部屋の中を見て段取り話した後、
2時間くらいかかるというので、
他でゆっくりしててもいいですよと言われ。

私の車で弥生さんと2人で
出かけてることに。

車に乗った途端私たちは同時に

「なに( ゚Д゚)これ!あのイケメン!!」
「ヤスミンはほんとイケメン引くわ!!!」
「マジでー!なんか前もイケメン清掃業者だったよね( ゚Д゚)」
「そうそう!イケメンだったマッチョ!」

とまー「イケメン」何回言うねんっていう。。

このオドロキは忘れられないw 

長くなったのでここらへんで。

つづく 








by sarah_51 | 2019-01-18 22:56 | 友と私。 | Comments(0)

「辛いのが苦手」でも美味しく食べれちゃう!インドの「サグカレー」♪


月に1度開催しているお料理教室。
今回は七草、、、ならぬ
インドの「ほうれん草(サグ)カレー」。

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インド料理屋さんにいくと大抵ありますよね?

でもどうやって作ってるんだろう~?
と思って今まで不思議でしたが、
本場インド人のシェフに直接教えてもらって、

「もうたまらん!!」

っていうほど美味しかったです。

味の決め手はこれ!

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このカスリメティという葉っぱの
乾燥したものを入れるとまさにあの!味!になるんですよぉ。

とはいえ、まぁなんと言いますか・・・。
スパイスの分量などはほんと見てても
ざざっとでして・・・。 

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自分でやりながら覚えるしかないですねぇ笑。

ほうれん草は今回は冷凍の
カットほうれん草を使ってました。
インドのほうれん草と同じ味だそうですよ。
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そしてこの日は特別にスパイスご飯も! 

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シナモンとカルダモン入りのこのご飯も
甘くて絶品でした!!

そしてこのサグカレー。
辛いのが苦手なうちの旦那さんも
「美味しい・・」
と食べてました(*´▽`*) 

ちょっぴりチリを入れてあったんですが、
ほうれん草の甘さなのか、
甘みがあるんですよ。

次回の料理教室は2月9日(土)
どうぞお楽しみに~ 

おしまい 


by sarah_51 | 2019-01-13 20:37 | 料理教室 | Comments(0)

「脳転移」友とわたし㉕「友が聞きたかったこと」

改めて主治医から「来年はない」という
告知を受けた友。
*友は2018年12月30日亡くなりました。㉓からは友が
 亡くなってから振り返って記事を書いています。

私たちは近くの広い公園に向かって
ヨロヨロ歩いていた。

「あっちに行こう」

という感じで私がベンチのある方を
指さすと友は、

「時間は大丈夫?」

と聞いてきた。
その日私は旦那さんが夕飯がいらなくて
ゆっくりできたので、
大丈夫だよと歩き出した。

「1人になるのが怖い」

小さくそうつぶやくように友が言い、
うんうんと言うように肩をさすって
あそこに座ろうと返事をした私。

そこからどれくらいの時間
過ごしただろう。

たぶん4時間くらいいたかも。

泣くでもなく。
叫ぶでもなく。
怒るでもなく。
あれこれ話すでもなく。

ただ友と私はそこに座って、
何を話すでもなく、
何を見るでもなく、
ただ、そこにいた。

目の前で小さなお子さんとお父さんが
ボールで遊んでいて、
天気はまぁまぁ良かっただろうか。

緑の葉っぱが時々
風で揺れて、その合間から
光がさしたりなんだり。

ふっと風が吹くと
友と私はその葉っぱを見上げたり。
見ているというか、感じているというか。
感じてもいないかな・・。

診察室で友が主治医に余命を聞いた後、
私は先生に「末期の状態ということですね」
と再度確認していた。 

主治医はまだ抗がん剤をする気ではいたが、
希望すれば緩和ケアへ移行できるのかを
確認したかったからだ。

主治医の返事は
「そうですね。そのように捉えて良いと思います。
 治療に関しては次の検査で最終的に相談しましょう」
ということだった。

私は身近な人でこうやって余命などを
聞くのは友で3度目だった。 

1度目は旦那さんのばぁちゃん。
「残念ですが時間がもうあまりありません」
だった。

その日私は世の中の全ての色と言う色が
なくなったような感覚で外に出て、
何を見ても色を感じず、
「魂の色」
が世界中のどんな美しい花や
空や、緑や、モノよりも
美しいものか知り涙が止まらなかった。

2度目は昨年6月に亡くなった同級生だ。

急性骨髄性白血病で治療中、
病気は改善して元気になってきていた矢先、
脳出血で意識不明になり余命を伝えられた。

その時私はご主人から本人のラインに
本人の代わりに書かれた文章でそのことを知り、
隣の部屋にいた旦那さんが
飛んでやってくるほどその場で
倒れこんで泣いていた。 

3度目の友は・・・。

なぜか不思議と静けさだけがそこにあった。
私は友が余命を伝えられたというよりも、
どことなく自分がそう言われたような
感覚で、そこにいる子供もお父さんも、
そこにある木々もこの風を感じることも、

もうしばらくしたらなくなるのか。

そんな気持ちでじっと静けさだけが
そこにあった。

友を励まそうとか、
何か声をかけなくちゃとか、
いっしょにいてあげなくちゃとか。

そういった気持ちもなく、
不思議となんとなく何かに時の流れを
ゆだねるようにしてそこにいた気がする。

そしてふとなんとなくそうしたらいいような気がして、
友の頭を私の肩にもたれるように
抱き寄せて、肩にそっと手を置いてみた。

友はびっくりするくらい、
遠慮なく私の肩に寄りかかってきて、
そのままずっと動かなくなった。

友の身体からは哀しみや
辛さやしんどさとか、
そういった何も感じさせるものはなくて、
わたしと同じ、なんか「無」の感じだった。

ずいぶんと時間が経って、
日が傾いて来た頃、友がおもむろに
寄りかかっていた頭と体を起こして、
ノートを出した。

聞いてきたことは2つ。
「神さまのこと感謝のこと」

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私たちはゆっくり色々な話をした。

友が聞いてくるままに、
私は答え、また友が聞くという感じ。

神さまはある人に良いことを望むと、
その人を試練にかけます。

というところで、友はびっくりして、
「バチが当たった!ではない」
と書いている。

ずっとずっと自分を責め続けて、
ずっとずっと自分が犯罪者で、
ずっとずっとそのせいで病気になって
それで神さまも何もかもが
自分を見放したと思っていたようだ。

また友は小さい頃耳が聴こえなくなったことすら
母親に理解されず激しい虐待にあっており、
父親もまた疎遠なまま自殺していた。

人間関係でもたくさんの苦労をして
人が離れていくことも経験しつづけてきた。

どこか揺るぎないモノの触れた
感覚はなかったのかもしれない。 

私は神さまと人を比べることはできないけど、
神さまの忍耐強さと慈悲は底なしに
すごいぞ。自分が弱く、何もできないと
わかって初めて人は心から感謝をしたり、
悪かったなぁと思えるけど、
元気な時はなんでも自分でできると思い込んでいて、
なかなかそんなことを考える機会もない。

だから今友が自分がそんな存在だと思って
いるんだとしたら、神さまはなおのことそんな友を
絶対に見放したりしないし、
自分の弱さに気が付いた今はむしろ良いことの
始まりだよというような話をしたと思う。 

だとしたら、「必ずいい方向にいきます」。 

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この時の言葉を後に友は弥生さんにも
辛いとき指でなぞって話してくれたらしい。

私は励まそうとしたわけではなく、
ただ真実を伝えただけ。

これからの不安や起きうることではなく
この時私と友はそれまで以上に
「生きる」
ことについて話していたと思う。

だいぶ日が落ちかかってきて、
そろそろ行こうかとなり、
もう今日はお弁当買って行こう、
そうしようと言って、

近くのデパートの地下で
こないだ食べたら美味しかったよ
という弁当を見て、2人で同じ弁当を
買って車で家まで送り届けた。

じゃあまたね。

ご飯食べるんだよ。

と言いながら。
そして私はこの日のことが、
2日後に彼女の人生に大きな決断を
させるとは全く思いもしないまま

とりあえずご飯を食べれそうで
よかったと帰宅したのだった。 


つづく。 



 



by sarah_51 | 2019-01-12 22:03 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉔「告知」


リハビリ病院を退院し、
脳外科・婦人科の再診の日が来た友。
*友は2018年12月30日亡くなりました。㉓からは友が
 亡くなってから振り返って記事を書いています。


脳転移の放射線治療効果が出ているかを
聞くのがメインの診察だけど、
婦人科の受診もあって全体的に状況を
再度見直すための診察だった。 

退院前から少しずつ変化を感じていた友が
当日までにノートに自分が気になること、
聞きたいことを書いてきていた。

でも。

その診察当日の友はたった1週間で
まるで別人のようになってしまっていた。

ひと言でいうなら、

「岩」

のようになってしまっていた。

友とは病院の待合室で待ち合わせだった。
確かにそこに友はいた。
自宅からバスですぐなのでバスで来たと思う。

でもまるで岩のようになった友は、
まっすぐ前を向いたまま、
反応がほとんどなかった。

会話にならず、先生に聞きたいこと
書いてきた?と聞くと視線を変えることなく
ぶるぶる震える手でカバンを開けようとし、
手伝うとノートをおずおずと見せてきた。

少し前に書いていたのだろう。

それほど震えはないけれど、
それでも元々の友の字とは異なり、
緊張している様子が伝わってくる文字だった。 

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友は子宮頸がんと診断された時、
まだ初期のがんだと言われていた。

でも手術をした際、そのがんは想像以上に大きく、
悪性度の強さを医師も私も感じていた。 

脳転移がわかった際、
「治療をしなければ」
ひと月もたないだろうと言われたけれど、
それも治療ができたので、
友はそこまで自分の時間が短いとは
思っていなかったところがある。

治療がうまくいった場合でも、
多くの人が半年から1年のピークであると
説明を受けていたけれど、それも
あくまでも統計上のものであって、
長い人もいるし、もっと短い人もいるという
話だったし、

また脳外科の先生は主治医ではなく
あくまでも「脳」の状態から言っているだけであり、
主治医からいわゆる「余命」を聞いたことは
本人はこれまでなかったのだ。

診察当日血液検査と脳のMRI検査をして、
まずは脳外科から受診した。

なんとか友を立たせて診察室に入るも
先生とは会話にならない。

友には言わず先生にだけわかるようにして
私は先生に伝えた。

「この1週間で急激に震えと様子がおかしくて。
 転移の影響なのかどうなのかよくわからない状態です」

すると医師からの説明は驚くもので。

「MRIの結果はとてもよかったですよ。
 治療前と比べて浮腫みがかなり減っています。
 がんそのものも小さくなってます。
 薬を少し減らして調整したいと思います」

という返事だった。

それを聞いた友は目玉を大きく見開いて
驚いた様子だったが、それ以上の反応がなく
医師が薬の減らし方を説明する間、
何度となく

「わかりますか?」

と聞かれたがもはや後で説明しておきますとしか
言いようのない状態だった。
ノートに減らし方を書いてもらった。 

浮腫に使用していたステロイドを
少しずつ減らしていくというもので、
間違って飲むと急にけいれんなどを
起こしてしまう人がいるため、
十分注意するよう説明を受けた。 

診察室を出て待合室に座ると、
友はふっと力が抜けたように硬い岩から、
小石みたいになった。

私のその時書いてきたのは、

「余命を聞くことしか考えてなかった。
 おくすりとか、むくみとか、
 へらすとか、たずねられて、
 何も考えてなかったことに
 隠そうとしたことに 
 ごまかそうとしたことに
 申し訳ありません。」

だった。

いいんだよ、いいんだよと
言いながら肩をさすっていい子いい子と
頭を撫でた。 

少しほっとしたのだろう。

友の表情は次の婦人科主治医の
診察までの間にだいぶ緩んできた。

そして主治医に呼ばれ婦人科診察室へ。

「脳外科の先生の話は聞きましたか?」

という出だしに私も友も、
心少なからず軽い頷きをした。 

ところがその後聞いた言葉は、
そこからまるでジェットコースターで
急落下したようなものだった。

「腫瘍マーカーがかなり上がっています。
 かなり強い反応で他に転移がある可能性があります。
 次回首から下のCTを再度撮って確認します。」

さらに、、、転移・・・。 

場所として考えられるのは、
骨盤内(腹部)、骨、その他の内臓とのことだった。

何か聞きたいことはありますか?
という医師の言葉に友はおずおずと、
ノートに書かれた文章を指でなぞった。

「私の余命を」

のところで、手が震えていた。

主治医は友の方にしっかりと向いて、
ゆっくりとわかるように説明を始めた。
時折ノートにも書きながら。

「私たちはいついつというはっきりした
 時間がわかるわけではありません。
 でも検査結果などから言えるのは、
 少なくとも「年単位」では考えられない。
 ということです。
 
 数か月かもしれないしもう少し長いかも
 しれません。でも来年またこの同じ時期が
 あるかといえば残念ですがそれはないと
 思います。」

「来年は、、、、」
と再度聞く友に、

「ないということになりますね・・・」

と。

この日の診察で肺の転移に行うはずだった
抗がん剤の件は、一旦保留として、
10月5日に再度CT検査をしてから、
最終判断をすることになった。 

友の希望である「曼荼羅を描きたい」
という気持ちと、次の抗がん剤で
しびれが出るようであれば、
曼荼羅に支障が出るため希望しないという
ことも私の方から事前に聞いていた希望として
この時伝えた。 

友は聞いているような聞いてないような。
固まってはいないけれど、
それほど反応もなかったのもあって、

わたしと主治医は次回の診察日と検査時間を
スケジュール帳を見ながらすり合わせ、
友に次回はこの日ねと言って、
とにかくまた次回診察でという感じで、
先生に頭を下げて診察室を出た。 

そこから私はどうやって会計したり
なんだりしたか覚えていない。

恐らく私たちはずっと無言だった。

薬を薬局でもらってその後、
私たちはどちらが言うでもなく、
病院の前にある大きな公園に
ヨロヨロと歩いて行った。 

長い、長いあの日の時間を
私はとても強く覚えている。

つづく 

 



by sarah_51 | 2019-01-11 21:40 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」友とわたし㉓「始まり・ふるえ」


友のリハビリ病院退院が見えてきた。
*友は2018年12月30日亡くなりました。ここからは友が
 亡くなってから振り返って記事を書いています。

まさかの㉓とかまで書いてるので、
ここで少し整理しようと思う。

2018年
3月5日 子宮頸がんの手術のため入院 
3月24日 退院。
4月3日~抗がん剤治療スタート 
6月   きつくて抗がん剤ストップ。抗がん剤の味覚障害の友に言ったひとこと
7月   曼荼羅教室再会に向けてサロンで体力トレーニング開始。
8月1日 曼荼羅ワークショップ復帰。復帰の様子

8月15日 脳転移見つかる。脳転移の記事開始①
8月20日 救急車で病院へ。脳転移ブログ⑦遠隔で救急車を呼ぶ
9月3日 リハビリ病院へ転院。脳転移ブログ⑮合宿所で忍耐の日々
9月21日 退院。 

書きだしてみるとかなり目まぐるしいわ・・・。

転移が見つかってから荷物を整理して、
大処分大会をして・・・。
転院先で1日5千歩も病院内を歩いたりなんだり
させられて(いや自分でもしてw)いる間に、
私は、生活保護や年金、アパート探しにあれこれと
忙しくして。 

でもこの時9月の入院はあくまでも、
「脳転移の放射線治療」
の結果が出るのにひと月ほどかかるという
前提で、その結果が出るまでは本来は
退院できたんです。

でも友は当時歩くこともままならず、
当初車いす状態だったので、
とてもじゃないけど4階建ての4階の
アパートで猫3匹と暮らすなんて戻れずで。

一旦リハビリ病院へ行き、
その後また主治医の病院へ戻って、

①脳転移の部分が改善してるか検査する。
②子宮頸がんのその他の転移がないか検査する。
③肺転移に対して抗がん剤を行う。

という3つの予定が進行中だった。 

でもリハビリ病院にいる間ずっとずっと
友が言い続けていたのは、

「曼荼羅が描きたい」

ということ。

1人の時間がなかなか作れない病院ではなく
自宅で早く曼荼羅が一人で描きたい。

「誰にも邪魔されたくない」

という気持ちが強くなってた。

なので今後の治療については
何度となく話し合って、 
友の気持ちを聞いて、
可能な限りの時間と予後と
治療の効果とメリットデメリットを考えて。

「曼荼羅を描くために抗がん剤はしない」

という結論を改めて出した。 

よく誤解されがちだけど、

腫瘍を小さくするために治療するんじゃない。
画像でみる転移を改善したいから治療するんじゃない。

したいことがあって、
そのために治療するんだし、
やりたい、生きたいことがあるから

「それを選択する」も「それを選択しない」

も両方あるんだっていうこと。
それを友と私は何度も何度もじっくり話し合った。

話し合ったといっても私はもっぱら、

「やりたいと思うならとことんやったらいいよ。
 誰かがもう止めたらいいのにと思っても、
 友が「治療する」ということこそが希望で
 それをしたいならいくらでも付き合う。
 でも同じように「やめたい」先に理由があるなら、
 やめたっていいんだよ。」

と言っていただけ。
あとは情報の提供だったかなと思う。 

「抗がん剤をしない」

という結論が出たことを私は
戻る先の病院のソーシャルワーカーさんへ連絡し、
今後どうしたらいいかを相談した。

すごくキレる方で色々と
先生へも働きかけてくれて。 

でもやはり一旦退院しないと、
事前に先生のところへ入院中別の病院へ
相談へいくというのはできないとのこと。

まだ新しいアパートへは引っ越しができずで、
こうなったら4階のアパートへ帰ろう。
1週間くらいだ。きっと大丈夫だろう。

ということで、予定より早く、
9月21日退院した。 

退院後私はしばらく友の自由な時間を
あまり奪いたくなかったのと、
1人暮らしで実際何が困るか体験して
教えてもらおうということもあって、
あまり自宅へ行くことをあえてしなかった。

メッセージで日々やり取りをして、
あとは友も自由に出かけてたし、
友達とかと会ってたりしてた。

でも退院が決まるころから、
そして退院後から徐々に、、、
そして急速に、、。

「手のふるえ」

が目立つようになってた。
スマホの文字がきちんと打てないのだろう。

返事が常にコピペで同じものばかり。
「はい」
「わかりました」
「はい」
「はい」
「わかりました」
みたいになって、
明らかに文章も短くなった。 

放射線治療の効果はどうなんだろう・・。
新たに転移が出てきてるんだろうか・・・。

そして友の思考もやや支離滅裂な
感じになりつつあった。

時々あれ?と思うような返事が来たり、
それこないだ話した気がするんだけどっていう
ことが増えたり・・。

この時のことは数名のお友達などからも
変だよね、なんだろうねなんて
話も聞かれたりした。  

そしてついには、

「警察につかまる!」

というのをいきなり言うようになった。

例えばそれは何でもないことで、
書類をなくしたと思って慌てて
連絡してきて、

「ここにあるよー」

って写メで送ると、
「捕まる!?と思った。。。」
とかそんな感じで。

極端な思考になったかと思えば、
割とふつーにだらだらしてたりとか。

なんかスイッチはいる時と
そうでない時があるようで・・。 

病気のせいなのか何なのか。
ちょっと判別つかないことが多かったけど、
とりあえずは次の診察で聞こう。

そんな気持ちで見守ってる感じだった。
9月28日の再診でまさかそれが、
思いもよらない状態で友と会うとは
その時は全く考えもしなかったけど・・。

つづく。 





by sarah_51 | 2019-01-07 23:26 | 医療と健康  | Comments(0)

友と私。「家族じゃない私が友の埋葬をするまで」


2018年12月30日、友は亡くなった。


友には家族がいます。
でも完全に絶縁しており友も私も消息を知りません。

友ががんとわかって手術をするときも、
抗がん剤など治療で入院中も、
その後介護保険のサービスを使用するときも、

何度となく友の意思をを確認したけど。
それはもう頑なに、
「何があっても連絡してくれるな」
というのが友の気持ちだった。

彼女は亡くなるちょうど3か月前、
自分からイスラム教徒になると言ってきた。

なので私は亡くなった後、
イスラームに乗っ取った方法で、
彼女の身を清め、埋葬する手続きをした。

家族ではない私が、どうやってそれをしたのか
記録として残しておこうと思う。 

友が亡くなる数日前、
私は残りの時間が少ないことを感じており、
準備もしておかなくてはと思っていた。

友のことを介護もその後も私が
順序良くできたのは、
すべてこの旦那さんのばぁちゃんの経験があったからだ。


これがなかったら到底その方法も
準備も何もかも全くわからなかったと思う。 

この時の経験を活かして、
友の状態が危ういなぁと感じていた私は、
次の3つのことを進めていた。

①友が入れるお墓とその地域の人への依頼
②福岡のモスク(イスラム教の寺院)に準備を依頼 
③病院→モスクなどの搬送業者の選定とメモ。

①に関しては以前ばぁちゃんが大分別府の
カトリック墓地に入れてもらった際、
もう大人は入れないと聞いていた。 

その後に亡くなった方も実際和歌山県や
大阪の墓地に埋葬されており、
友には以前その話をすでにしていた。 

そのため私は大阪のイスラミックセンターの方に
連絡を取り、「近づいている」ということだけ伝え、
その場合にお願いできるか聞いた。

和歌山のとても遠い山奥のようだったけど、
その時が来た場合は責任をもって埋葬の
手続きをしてくださるという返事に安堵した。

②は友が亡くなる前日病院にいる際に
メッセージで伝えた。その時も、
ただ、
「彼女の最期の日が近いかもしれません。
 よろしくお伝えください」
とだけ送った。

返信には全てのことは神の御手にあり、
私たちにはわからないが、
彼女のためにドゥアー(祈り)ます。
ということと、責任者にすぐメッセージを
転送してくれたことが書いてあった。 

責任者の方は以前友も会ったことがあり、
状況は知っていたし、ばぁちゃんの時も
色々してくれたのでもうその一言で
何をするべきか伝わる。
その返事でもう大丈夫だと思った。 

そして友が亡くなる2時間ほど前。

私はいっしょにいた弥生さんと、
訪問看護師の所長と別室に行き、
埋葬までの流れを説明した。 

なぜなら通常の日本人の方の
葬儀とは異なり、時間があまりなく、
翌日には埋葬となるためだ。

私は何をするか、2人に何を
手伝ってほしいかなどを伝えた。

その後友が本当に亡くなって、
医者がその時刻を私といっしょにいた
弥生さんに告げた後、

私は病棟看護師に、

・湯かんをいっしょにできるか。
・その時間はどれくらいか。
・何時まで病室にいて大丈夫か

をすぐ尋ねた。 

通常の病棟と異なり緩和ケア病棟では、
いわゆる「霊安室」というものはない。

亡くなったその病室でゆっくり過ごしてから
葬儀会場などへ搬送することも可能だ。

また、湯かんは私自身緩和ケア病棟で
以前働いていてご家族がいっしょにしていたし、
ばぁちゃんの時に自分も体験して
心底やってよかったと思っていた。

その間私は、

・葬儀屋へモスクへの搬送の手配と安置などのお願い
・モスクへの連絡と葬儀の準備依頼
・区役所に死亡届と埋葬許可証発行の手続き 
・亡くなったことのアナウンスとお別れの時間などの案内

などをする必要があった。

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時間はおよそ2、3時間。

急で申し訳なかったけど、
弥生さんに湯かんをいっしょにやってあげて欲しいと
お願いして、その間に私は上記4つをすることに。

書けば容易いけど、色々な時間調整や
誰が、どこに、何時にスタンバイするのかなど
けっこう電話でのやり取りが多い。

ところがだ。

友は本当に何もかもが恵まれているなぁ。
すごいことがここから起きた。
それは、

①埋葬先は和歌山ではなく大分別府でできることに。
②となると空輸などの必要がなくなり金銭的にも
 労力的にも問題なくなる。
③大分まではモスクの男性陣がレンタカーで行くことに。
④病院からモスク、安置場所までは以前ばぁちゃんを
 担当してくれた葬儀屋さんが覚えていてくれて、
 手はずをあうんでやってくれた。 

もうほんとに、、、、。
アルハムドリッラー。
(アッラーに全ての賞賛は返ります)

イスラム教徒の棺とかってないので、
葬儀屋さんがなかなか理解してくれず、
棺だけで祭壇はいらないとか、
おされな布とかかかってなくていいとか。
香典とかもないので受付もいらないとか。

ばぁちゃんの時はそこから説明しなくては
ならず何度も何度も確認の連絡がきて
すごく大変だった。

でもそこがもう一気にスムーズになった
おかげで、私はふと友の「お友達たち」に
しっかりお別れができるようにしたいなと思った。

病院で湯かんをするけれど、
イスラームでいう清めとは異なるため、
再度2時間くらいかけてしないといけない。
でもそれをしてしまうと、白い布に
全身包まれてしまって顔も見えなくなってしまう。 

ばぁちゃんの時は後から来た遠い親戚の方が
顔がみれなくて残念だった、、と言っていたので。 
何とかしたいなと。 

そこで閃いて、モスクの人に夜遅くでも
清めはできるかと聞いたら、
「それはいい考えだね、さあらとうちの奥さんで
 するだけだから大丈夫だよ」
と・・・。

はぁ、、、まじっすかたった2人で!( ゚Д゚)

まぁでも仕方ないわー。

というわけで、

13:16 友亡くなる。
13:30すぎから 友湯かんへ 

弥生さんは最初いきなりのこの湯かんに
えー!と思ったようだったけど、
終わって会った時には

「やってよかった♡」

と言っていた。
お風呂に入れてあげながら、
お風呂のお湯の暖かさて癒されつつも、
友がもう「本当に動かないんだ」という
ことをお湯に入ってる気持ちよさそうな
顔を見ながら思ったそうだ。

14:00くらいだったか。 湯かん終わり。

その間、私は区役所書類関係。

18:30-21:00 友葬儀屋へ安置。
かなりたくさんの方達とお別れ会に。
私は申し訳ないけどその間に夕食を買ってきて、
夜中に備えてバクバク食べていた。 
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友はあんまりしんみりしたの好きじゃないので、
実際にはもっと楽し気にそこにいてもらった。 
友の最期までの様子なども伝えながら。 

21:00-23:30 友モスクへ移動。
真夜中の地下で清めのためにえんらこや。
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白い布は友の身体に合わせてカットしてくれてて、
すんごいいい香りのお湯と、
何やらいい香りの粉(くろっぽいやつ)と金の粉まで
つけて準備完璧にしてくれてた。

他にもかなり色々準備いるんだけど。
もうパーフェクトで。
これまたばぁちゃんの時いっしょにやった
人だったので、もう黙々とやったわ。

終わったら私はたった2人で友の身体を
持ち上げたりなんだりで、
もう膝がガクガクになっていたけど。

24:00 友モスクから葬儀屋へ戻る。

といった流れでその日が終わった。

がががが、しかし・・・。

家族でない私は実は区役所に行った時、
「死亡届」と「埋葬許可証」を
出してもらうことができなかった・・・。

まるで後見人がすること全てしているけど、
法的な後見人の手続きをすると、
家族への連絡がいくこともあるので
できなかったししなかった。 

しかも年末で受け付けは24時間空いてても
担当者はいないわ、土葬は初めて聞いたわ、
友人じゃ、、、どうにもこうにも、、。

というわけで。

書類をもらって一旦病院に戻り、
翌朝一番でまた病院に取りに行くことに。

亡くなった場所の所属長だと書けるんで、
理事長先生にお願いという、、、。
看取りを確認した医師ではダメなのですよ、、。

休みで院内にはいないというその
理事長先生を呼びだして今晩中に書いて
欲しいと依頼・・。 

だってその2つの書類がないと、
埋葬できないんでもん!! 

まぁしかし翌日スムーズに
病院→区役所→モスクへと
私も移動して書類もらって。

埋葬許可証は、葬儀執行人という
名義で私が出すことができました。  

天気よかった・・。 

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イスラームの葬儀の礼拝ってのは、
すごい短くてあっという間に終わる。

これはすごいいいなぁと思うところ笑。 

私がずっと友と過ごしてきたこと、
前の日夜中までかかって、朝からも
書類などの手続きをしてたことを
ヒゲブラザーズたちも知っていて、
ちょっと大分までは行けないかも、、と
弱気な私に、

もう十分やったよさあら。
お墓のことは任せとけと出発。

私はその車に手を振ってお見送りした。 

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なんか光がすごいねぇ。
そして私は、
なんかこう、、、力抜けちゃって。

さっと帰るのもなぁと思っていたら、
友が亡くなる前にいっしょにお鍋食べた
家族が葬儀に来てくれてて。

「何かいっしょにちょっと食べよう」

と言ってくれて。
すごいありがたかった。

子供ってすごいですねぇ。

「ヤスミンさん死んじゃったの?」

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って聞きながらもすごい笑顔で。

きっと亡くなるということが
それほど大きな問題ではないことを
知っているんじゃないかなと思う。

ヤスミンがいたら食べたいと騒いだであろう
その子が頼んでたの同じのを食べて。 

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亡くなってから埋葬へお見送りまで。

そんな感じでした。 

友よ、けっこう大変だったぞ。
でも棺の中の友におつかれおつかれおつかれーと
手話でトントン叩いたから。

友もいつものように私にも
そうしてくれてたと思う。 

墓の中の話でも今度教えてくれ。

あんまり聞きたくないけど
怖くない程度に笑。 

後処理につづくー。 





by sarah_51 | 2019-01-06 18:03 | 友と私。 | Comments(0)

友を見送る最期の10日間。「ALL OK♪」に生きた日々とは? 


「友」は2018年12月30日、13時16分。
搬送された病院で両手を私と、いっしょに介助をしてくれてた
弥生さんに握られたまま、いつ亡くなったのか
わからないほど穏やかに息を引き取った。

44歳。子宮頸がんとわかって10か月。
イスラム教徒になって3か月。 

友は光になったのでも星になったのでも
天国にいったのでもなく、
今は大分別府の墓地で眠っています。 

彼女が最後に持っていたものは、
首に巻いたスカーフとメガネ、
あとは着ていたパジャマのみ。

保険証などを出すのに私が持って行ってた
友のリュックの中にあったこの手帳。 

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そこに挟んであったのは、
まさに友の最期の様子でもあるこの3つ。

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「ALL OK♪」と「イケメン」と「いつでも今を全力で生きていく」

なんとまぁこの通りに生き抜いたなぁと。

友を知る人たちも多く、
そして最後まで一人暮らしを全うした
彼女の様子をここに残しておこうと思う。

「脳転移」友と私。 シリーズはまだまだ
継続中だけど、この記憶を先にとどめておきたいので。
先にこの10日の出来事を書いておきます。 

ーーーーーーーーーーーーーー
12月19日(水)
ーーーーーーーーーーーーーー
私は2週間ぶりに友の家を訪問した。
5日から私は仕事の出張で1週間会えない
予定だったがその後かなり体調を崩してしまい、
友がやたらと私を心配するため、遠慮なく
1週間休みをもらった。 

その間訪問看護師さんやヘルパーさん、
週に1回買い物やランチなどをお願いしていた
友人の弥生さんからも友が変わりないと
聞いていたためだ。

でもこの日久々に見た友の顔をみて、
すぐに第六感のようなものが働いた。

「おかしい」

様子を聞くとなんとなく倦怠感が強い友は、
頭痛がおさまらないこと、珍しく腰が痛かったけど
ロキソニンを飲んで1日でそれは良くなったこと、
首のリンパ節のしこりが以前より大きくなってること
など気になることを色々と言ってきた。

「明日先生の受診日だから聞いてみようね」

とだけ伝えて背中のリラクゼーションなどを
行って横になってもらった。 

ーーーーーーーーーー
12月20日(木)
ーーーーーーーーーー
15時半、途中から変わっていた
緩和ケアの主治医を受診。

「最近はどうですか?」

の質問に頭がまだ痛いです。
程度しか言わない友に代わって、
様子を伝えた。

「変化してきてますね」

という医師と私の意識は同じで、
痛みのコントロールを常時開始するに
あたり一度検査をしておこうということに。

急遽だったが血液検査、CT、MRIを実施。
1時間後結果をざっと見せてもらった。

もう夕方で疲れてるだろうからと言いながら、
医師はざーっと前回と今回を比べながら、
ここね、あとここ、それにここ。
と次々すごい勢いで見せていたので、
友には「あとで話す」と伝えて話に集中した。 

結果は想像を遥かに超えて転移が広がっており、
もともとあった脳転移と肺転移はその数も
大きさも増え、他に肝臓に非常に大きな転移が見られ、
ちょうど友が痛いと言った腰の骨にも転移があった。

また、友は2度自宅で転倒しているが、
その際にできた傷から頭の皮膚もがんができており、
それが痛みのもとでもあった。 

「痛い時だけ飲むのではなくて、ひどく痛くならないように
 1日3回お薬を飲んでいきましょう。それでだいぶ
 痛みが楽になると思いますよ」

と友に説明してくれ友はとても安堵した様子だった。 

帰りがけ私は友に結果をどこまで聞きたいか?
と聞いたところ、「わからないままより知っておきたい」
と言ったので、今日はゆっくり寝て明日メッセージする。
と伝えて自宅まで送った。 

ーーーーーーーーーー
12月21日、22日 
ーーーーーーーーーー
残された時間がそれほど多くないかもしれない。
そうおもった私は以前友がもう1度会いたいと
言っていた「イケメン」ともう1度会えるか
聞いてみようか?と聞いた。

「え!めっちゃ嬉しい!」

と喜んだ友に、あーはいはいまったく
イケメンだと返事が急によろしいねぇ。
と笑って言いながら連絡を取った。 

イケメンには25日か29日。
友が会いたいと言ってるのだけど
可能かと聞いたところどちらの日でも
大丈夫だと速攻返事をくれたので、
早いほうの日で25日を選んだ。 

昨日の結果はメッセージで全て医師の言葉
そのままに伝え、友は「聞いてよかった」と
言っていた。 

ーーーーーーーーーー
12月24日(月)
ーーーーーーーーーー
自宅訪問はできなかったが、
メッセージで友と明日のおデートは
行けそうか体調を聞いてみたところ、
速攻で
「楽しみ!」
という返事が、、、。

薬のおかげでだいぶ痛みも緩和されているようで、
ややぼーっとするけど痛くないという感じだった。

何を着ていこうかなー。
何か持って行ったほうがいいかなー。

イケメンだから何も持ってこなくても
喜んでくれるよなどなど、、、。

まー本当にうっきうきで華やいだ会話だった笑。 

明日は私は仕事なのでと、友人の弥生さんに
送迎をお願いして3人で楽しんでねと伝えて終わった。

ーーーーーーーーーーー
12月25日(火)亡くなる5日前
ーーーーーーーーーーー
デート当日の朝、体調を確認して、
行ける!という返事に安心し、
イケメンへも問題ないのでよろしくーと
連絡をしてその日私は仕事に行っていた。

送迎してくれた弥生さんから、
とっても楽しそうだったと写真が。 

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なんだ結局いつもと同じ服着ていったのか笑。
そう思いつつ。。。
友にもよかったねーとメッセージして、
喜びの返事を聞いた。 

この日友はちょっと寄りたいと、
デートの後本屋へ行き、闘病中の
「幡野さん」
の本を購入したらしい。
以前からずっと読みたいと言ってたなぁ。

ーーーーーーーーーーーーーーー
12月26日(水)
ーーーーーーーーーーーーーーー
夕方自宅を訪問してみると、
友はずっと寝ていたようで、
浮腫んだ顔がなんとも縦長になっており、
ずいぶん寝たなー。
外出でやっぱり疲れたかな?

など言いながら少しまた
背中全体をリラクゼーションのために
ゆっくりさすっていた。

この時、両腕と太ももに紫斑があった。
痒くはないけどどうもこの2日くらいで
出てきたようだという言う。

あまり気にせず今度先生に聞いてみよう。
とだけ伝えたが、リンパ節の腫瘤も
たった1週間で相当な大きさに腫れあがっており、
その勢いを感じざるを得なかった。 

1週間、10日もつだろうか、、。

恐らく自分で食事を作るとか大変なのでと、
お湯を入れれば食べれるものや、
友が毎日食べてたヨーグルトやバナナなどを
持って置いておいた。 

ーーーーーーーーーーーー
12月27日(木)
ーーーーーーーーーーーー
緩和ケア医師を再度受診。
先週から出してもらった薬が
効いているかどうか年末年始もあるので
来ることにしていた。 

迎えに行く前朝メッセージがなかったので
薬を飲まないとなのでご飯を何か
食べるように声をかけて、、。

まぁ我々の会話はいつもと同じで
こんな感じ・・笑 

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痛みはうまくコントロールできており、
それほど痛がらなくなっていた。

紫斑や首の腫瘤なども伝えたが、
医師も痒くなければあまり気にしなくていいし、
何かできるというものでもないのでと。

私は万が一のこともあると思い、
医師に、
「以前はトイレに一人で行けなくなったら
 入院しましょうという話でしたが、
 最近の様子からどうでしょうか」
と聞いた。

そうですね、、と言いながら、
恐らく脳の症状が出てくる可能性が強いので、
トイレに行けてたとしても痛みが強いとか
ふらつきがあるなど1人で不安な様子であれば、
いつでも相談してくださいと。

本人もそれを聞いてちょっと安心していた。 

けれどこの日の夜私は非常にリアルに
友が翌日集まる鍋会の後、倒れて声をかけ、
救急車を呼ぶ夢を見ていた。

朝起きた私の手には、ぎゅうううっと
握りしめ続けていたらしい爪の後が
くっきりと手のひらについて
しばらくとれないほどだった。 

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12月28日(金)亡くなる2日前 
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元々は初旬に体調を崩した私の
復帰祝いと言って鍋を作ってくれるという
話があったのだが、それならせっかくだからと、
ムスリムだけで集まって鍋をすることに。

私のサロンに何もかも用意してくれて。 

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18時くらいに集合にしようと言っていたけど、
友はこの日自分でバスで行くといい、
あまりにうっきうきしすぎて早く着き、
思わずスタバに行くとこだった!!!
とか言いながら1番ノリでやってきた笑。

このネギと美味しい鶏肉だけのだし汁も
早速試飲して、すごいねー美味しいねぇ・・・
ととても喜んでいた。

ソファーとか横になる場所がないので、
せめてと思い壁側の椅子に座ってもらい、
しんどかったら壁に頭をつけていいよ。

と言っていたけどそれほどでもないと言い、
終始楽しそうに、そして自分から鍋の
お代わりまでして、私と同じくらいか、
それ以上にか?美味しいね美味しいねと
たくさん食べた。 

1月3日が友の誕生日だけど、
この日お友達がケーキを用意してくれてて、
もう前祝いだねー!と言いながら、
ケーキも食べて。 

何歳になるんですか?と
聞かれて、
「45だよね」
と私が言うと頑なに、
「まだ44歳です」
ときっぱりwww 

ご飯の後でおなかいっぱい、
疲れただろうに、赤ちゃんを
抱っこしたいと言って。 

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友はもともと実はあまり子供が好きではなかった。
曼荼羅教室なども子供はできれば避けたいと
言っていたし、耳が聴こえず友の言葉を
なかなか理解してくれない子供は苦手だったようだ。

でもこの日友は赤ちゃんに自分から
手話で「また会いましょう、またね~(*´▽`*)」
と話しかけていた。 

本当は1時間くらいで帰そうと思っていたのに、
結局2時間ちょっといっしょに過ごして、
自宅まで送っていった。 

ちょっと胃のあたりが痛そうにしていたので
心配してメッセージしたけど。  

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とても満足だったらしい。
赤ちゃんとの3人の写真がとても気にっていて、
FBへも出していいよと言ってきたので、
近況として出させてもらった。 

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12月29日(土)
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翌朝私は何とも言えない心配があって、
夜の外出はかなり久しぶりだったし、
たくさん食べて疲れただろうし、、と
朝メッセージをした。

いつもなら友の方が先に起きていて
すく既読になるはずが、なかなかならない。

でも時々疲れて寝てることもあるので、
また午後に様子見てみよう。

そう思って仕事の前に13時頃友の家に行った。
インターホンを押すが出てこない。
メッセージも既読になっていない。

訪問看護師にも連絡して、
もしもの場合があるかもしれないのでと、
再度訪問することを伝えた。

15時すぎて再度自宅に行くと、
状況は全く同じ。
ドアにはチェーンがかかっていて入れない。
朝風呂に入ると言ったいたので、
風呂場で倒れているかもしれない。

そう思いつつ、でも正直私一人で
その状況を見る自信がなかった。

訪問看護師さんを待って一緒に中へ。 

ベッドの上で倒れている友を発見。
看護師さんが声をかけるも反応がなく。
再度私が肩を叩いて顔をぐっと近づけると、

「ああ・・・」

とわかったわかったという感じで
私の顔を認識したようで返事をした。

よかった、、、生きていた。

その場で看護師さんが血圧などを測定する間に
那珂川病院へ搬送したい旨を連絡、
救急車を呼んで看護師さんが言うバイタルを
伝え、貴重品やその他持って行くものを準備した。

病院に着くと友は次第に意識が戻ってきて、
私とふつうに会話ができるようになった。

「頭と背中、胃の辺りがとても痛い。
 バッキバキな感じ」

と言い検査が終わったころには、
もう少し落ち着いて状況を聞くことができた。

夜まではまったく問題なく眠れたようだ。
朝起きてその後どうも変だったらしいが、
そのままベッドに倒れてしまったらしい。

枕元にはインタホーンで強い振動が起きるものや
光センサーなどもあったけど残念ながら、
それとは反対側に倒れこんでしまったので、
私の訪問に気が付かなかったようだった。 

「なんか食べれるかな、いや無理か・・」

とこの大変な時に食べたいと言ってきたけど、
とりあえず先生に確認して私が持ってた
ピーチティを飲ませることに。

すごい勢いでごくごく飲んで、
「おっけー」
のサインを出してきた笑 

少しどこかへ行こうとすると、
「また来る??」
と聞くため随時声掛けしながらそばにいた。

病院では緩和ケア医師が夜勤にいなかったので、
外から非常勤で来ていた医師が診てくれたが、

「今後の治療についてはどのように話してますか」

と言われ私は状況を理解した。

「全ての緩和ケアの説明に本人同意してます」

と伝えた。
それはつまり、これ以上の積極的治療や
延命治療はしないことを意味している。

この時脳や肝臓の出血が激しく、多臓器不全の
状態に陥っており実際問題もう手のほどこしようが
ないとはこのことだ、という状態だった。

正直友と私が普通に会話できていることが
神の援助と計らいである以外
なんであろうかと思う状態だった。   

事前に友がサインした書類もあったので、
家族ではない私が勝手に決定するのではなく、
今どこの病院にいるかも本人わかっていること
と合わせて、それではと緩和ケア病棟へ
そのまま入院させてもらうことになった。 

病棟へ移動するまでの間時間があったので、
友に、入院したことや今の状況を
他の人に伝えてもいいか?と聞いた。

けれど友はわざわざ酸素マスクを外して
はっきりと、

「いやだ」

と言ってきた。
友は以前からもう誰にも病院も家も教えたくない。
会いたい人はいない。
と言っていた。

でも友は会いたい人はいなくても、
友に会いたい人はいるのでとちょっと思ったのだ。

でもこうもはっきり言われたのでは仕方ない。
私はすべてが終わるまで誰にも言うまいと思った。 

「わかった。しーってしとく」

と言って内緒にすることを言うと、
友はふっと笑ってうんうんと私の
手を握りながらうなずいていた。

痛みがかなりきつそうだったが、
そういう時に言うといい、

「ラーイラーハイッラッラー」

というアッラー以外に神はなし。
というアラビア語を友はずっと
言いながら耐えていた。 

状況が少し変化したのは夜8時を過ぎてからだろうか。

友は時々ベッドの柵を乗り越えようとしたり、
置きがったり寝たりを繰り返すようになった。

「なんでこんなに身体が重いのかな、、」

そう言いながら布団をはいだり戻したり。  
人が亡くなる前、こうした現象が起きることは
私は以前身内でも体験していた。 

「先生、痛みではなくもうせん妄の時期かと思います。
 できれば鎮静をお願いします。可能な限り会話が
 できる範囲でお願いしたいです。」

と伝え病棟にあがった。 

夜9時すぎ、無事病室に入院し、
少し薬が効いてきたのか友が時折じっとするようになり、
まだ上を向いたり横を向いたりはしているけれど、
今夜、、ということはないだろう。
ここからが私も体力勝負だ。。

そう思って私は友に、そろそろ私は帰ろうと思う。
と言うと、いつもと同じように、
「あ、うんうん。気を付けて」
と。
「何か心配なことはある?」
と聞くと、
「ううん、何もない。ただちょっとまだ痛いだけ」
と返ってきた。

せん妄の中あっても友はありがとうを
忘れずいつもと同じ。

緩和ケアの医師からは、年内、、いや年を越せるか。
とにかく厳しいとだけ言われた。
柵を乗り越えて転倒をしないようにだけお願いしますと
伝えその日は帰宅した。  

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12月30日(日)
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朝病院から少し顔色が悪いようだと
連絡があり急いで9時過ぎに病院へ行った。
同時に弥生さんへも連絡。
できれば早くに来て欲しいとだけ伝えた。

もう1度彼女と話をさせてください。

そう祈りながら病院へ向かった。 

でも着いてみると友は意識もあり、
私に気が付いて「おはよー」と言うと、
うんうんと手をにぎにぎしてきた。

後からすぐ弥生さんも到着し、
私たちは互いに声をかけたり、
なんだりしつつも徐々に友の状態が
落ち着いていった感じがしていた。 

看護師さんも朝より私たちが来てから
ずいぶんよいようだと。

訪問看護師さんも様子見に来てくれて、
また夕方に見に来てみますねというほど
今すぐとは思えない状態だった。 

少し、、足の裏が紫色になりつつあったが、
肩呼吸などなく、今晩か明日だろうか、、と
思える状態だった。 

私は夜以降は何も時間が取れないかもと思い、
弥生さんと今のうちに昼ご飯を食べようと誘った。

友にもご飯食べてくるね。
と伝えると、うっすら目を開けて
ダメだとは言わなかった。 

病院からすぐのうどん屋で1時間もないほど
たわいのない話をしながら食事をして、
病室へ戻ると、友の様子が変わっていた。

横を向いたまま顔色が悪い。 
肩やほっぺを軽くたたきつつ、
ナースコールを押した。

息が止まっているのか、、
いやまだ生きているかな、、。

一旦身体を上向きにしてもらったが、
呼吸をしている様子はなかった。

でも汗をかいたそのおでこや
身体はまだじっとりと温かく、
心臓は動いているようだった。 

友の顔は目を閉じていて、
スヤスヤ寝ているような、
なんだろう?と言ってるような。

弥生さんが右手を、私が左手を。
両手を握ってそっと声をかける時間が
数分ほどあっただろうか。

すーっっと汗が引きじっとりとしていた
おでこや顔全体がさらさらになった。

亡くなるとき大きな息をする人もいる。
でも友はそうした息も目を閉じていく様子も
何もなく、私たちはいつ亡くなったのか、、
と思うほどのその数分を過ごし、
看護師さんに先生を呼んでもらった。 

私は友が死んでしまったら、
号泣してしまうと思っていた。 

でもあまりにも、え?もう?
というこの出来事に正直私は今でもまだ
本当なのかなと思っているくらいだ。 

インナーリッラーヒ ワインナーイライヒラージーウン。
本当に私たちはアッラーの許よりきて、
そして本当にアッラーの許へと返り逝きます。 

彼女の生きた最期の10日間は、
本当に全てオッケーとイケメン、
そして「今」を生き抜いた最期でした。 

1人暮らしの耳の聴こえない友が、
彼女の人生を彼女の望みの通り、
全うできたのは神さまと彼女の関係性において
とても愛されていたからであろうと思う。 

友と私。の話はまだ続きます。

今日のブログは本当に長いですが、
読んでくださって心から感謝いたします。

















by sarah_51 | 2019-01-02 18:00 | 友と私。 | Comments(0)