カテゴリ:医療と健康 ( 52 )

「脳転移」と友とわたし㉜「再発検査と奇跡の声」


10月1日緊急入院し、4日に友が入院中に引っ越しを終え、
5日に9月指摘されていた腫瘍マーカーの数値から、
非情に広範囲の再発転移が考えられると言われていた友。 

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/

その検査結果を聞く10月5日。

この日、友は万が一退院できた場合に、
担当するケアマネさんと訪問看護ステーションの
事業所長が面会に来る予定だった。

朝のうちに病院に行くと、
友の表情は硬く、手先がぶるぶる震えていて、
緊張のせいなのか脳転移のせいなのか、
看護師さんに聞いても別段昨日と変わりないという
返事だけだった。

ケアマネさんと訪問看護師さんも
主治医に挨拶したいという。

私は友の緊張しているような様子と、
ここ数日のコミュニケーションの
取れなさ加減から、友が今再発転移の
説明を万が一聞いたとしても、
到底受け止められないのではないか。

と心配していた。 

そこで事前に婦人科外来の看護師さんに
そのことを話して、ケアマネと訪問看護師さんの
挨拶も一緒に主治医と面談できないか。

友へどこまでどのように話すのかも
その際に先生と話しておきたい。

そうお願いした。

あまりにも人が変わったように
生きる気力を失くしてしまっている友のことを
外来看護師さんも聞いていたらしい。

そうね、その通りですね。
そうしましょう!ちょっと待っててください。

とすぐ主治医と話をしてくださって。
事前に友にはわからないように、
私はケアマネさんと話をするとだけ言って
病室を離れることにして先に主治医と会い、

その後部屋に戻る頃に友が外来に
呼ばれるよう時間調整してくれた。

その後ケマネさんと訪問看護師さんと一緒に
主治医の先生にお会いし、
私は先生に現状の友の様子を伝えて、
もし検査の結果再発転移があるとしても、

「がんは変わらずあります。
 でも思っていたようなものはありませんでした。
 経過をみましょう」

という具合に話してもらえないかと
先生にお願いした。

実際のところどうなのかは
特にこの時聞かなかった。
あくまでもこちらのお願いを伝え、
あとは先生にお任せすることにした。

病室に戻って友と外来に呼ばれるのを
待っていると、病棟看護師さんが呼びに来て、

「山口さ~ん、移動しましょうか」

と声をかけたが車椅子でないと
移動できないほど友の動きは
普通ではなかったし、
歩ける感じではなかった。

友は何も言わずただでっかく
目を見開いたまま、
婦人科外来の診察室に入り、
私もいっしょに脇の椅子に座った。

先生はCTの画像を友に見せながら、
ノートにも説明を書いてくれた。

「これがリハビリ病院へ行く前の写真。
 ここが肺で、転移のあるところです。

 次が今回の写真。
 これが肺ね。やっぱり転移はあります。
 ここと、ここも。
 でも前とほとんど変わってない感じです。
 
 そのほかには目立った転移は
 ありませんでした。
 腫瘍マーカーがとても高かったので、
 再発転移を心配したけれど、
 今のところ肉眼で確認できるがんは
 今までの脳と肺の他には見つからなかったです。」

と説明してくれた・・。

友は手をぶるぶる震わせながら、
目を大きく大きく開いて
驚いたようにうなずいき、
その表情はとても安堵したように
こわばった顔から普通の顔に
戻っているかのようだった。 

退院したらまた経過診察に来てくださいと
次回の検査予約をとり、
友は深々と頭を下げて診察室を後にした。

私は病棟に友の車いすを押して戻り、
ベッドに友を座らせた後、

「よかったね。安心したね」

と友に話しかけたけど、
壁の方を向いたまま
反応はなかった。

でもあのほんの一瞬だったけど、
安堵したような表情を見せた友を
思い出して、私は不覚にもここで

友が壁の方を向いているのをいいことに、
そして耳が聴こえないことをいいことに、

涙を止められなくなってしまった。
それはもう嗚咽しながらで、
腕で何度も涙を拭うけど、
全然止まらなくて・・。

友にわからないように、
見えないように泣いてたつもりだったけど
もうじっとそこで動けないほど
涙してしまった。

その時だ。

私の小さくきゅっと握った手に
ふっと手を添えて、
小さくぽんぽん、ぽんぽんと
私の手を叩いたりさすったり。

そして友はまっすぐ私の方を向いて
こう言ってきたのだ。

「さあらさんは愛の人。
 今までも。これからもずっと。
 
 私はさあらさんが思うように
 生きていく。
 それでいい。」

そう言ってまた壁の方を向いてしまった。

はっと思い出した。
それは友が以前私をイメージして描いたという
曼荼羅の作品についていた友の言葉だ。 

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私はノートに、

本当はすごくすごく心配で、
転移のことも心配でたまらなかったこと
今回のことも心配で
もっともっと早く友の心の変化に
気が付いてあげればよかったこと。
誰にも相談できなくてつらかったこと。

いろんな気持ちを殴り書きするかのように
泣きながら書いた。

友は横を向いたままだったけど
私はもう友は聞いてくれてると
確信していた。

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また明日来るよ。

そう言っていつものように
友にハグした。

これまで全く反応がなかった
帰りのハグだったけど、

友は私の背中に両手の指を
ぎゅーーーーぅっと
爪を立ててハグし返してきた。

不思議と何も痛くなかった。
背中にくっきり爪の後が
残っていたけど。

私は友が自分で爪を立てて
ぎゅっとするのをやめるまで、
ずっとそのハグを受け止めていた。

後から思うとこれはまるで、

ナウシカのテトに

「大丈夫。怖くない」

と手を出して噛まれてるシーンじゃないか?

と思うほど、友は色々な恐怖と
不安と、混乱と。

いろんな気持ちをそのハグに
表現してたのかなと思う。

退院したら一人暮らししないといけない。

でもきっとできる。
できるようにするよ。

そう思いながら具体的に
何をどう進めようか。

あれこれ考えを巡らせていた。

つづく 







by sarah_51 | 2019-03-13 18:48 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉛「ひっこしは 本当にする?」ICUでの日々。


救命センターに入院していた友。
数日後ICUの四人部屋へ移動した。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
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ほとんど会話をしなくなっていた友だけど、
病棟スタッフの筆談には必要範囲
応じるようになっていた。

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それでも、「生きる」という
気持ちが弱くなっているのか、
何も荷物を持ってきてほしくないようで、
必要な水も500mlのペットボトル2本。
その2本だけ買ってきてと言うだけで、

念のためと1本多く買ったり、
おやつなど持って行くと
押し返すようにして断ってきた。

4人部屋の廊下側のベッドの上にいるか、
脚をおろして座っているか。

人と会うことに非常に恐怖感を
あらわにしていた友は、
面会中もカーテンがほんの隙間でも
開いているとまるでゴキブリでも
見たかのような怯えた顔で、

じっとその隙間を見たり、
カーテンの下から同じ部屋の
患者さんへ向かう医療者の脚が
見えると、ずっとそれをコワゴワと
覗いて目で追っていた。

それでも10月4日の引っ越しを
私は進めてることや、
段ボールに何を入れたよとか、
色々な確認も必ず友に聞いてから
するようにしていた。

最も大切な確認。

それは11月に予定していた
友の個展だった。

「翠」

という名前で曼荼羅アーティストとして
活動していた友。

子宮頸がんはまさにその活動を
広げようとしていた矢先に見つかった。

この個展は彼女が病気と向き合い、
何よりも描きたいと思って
つらい治療もリハビリも乗り越えて
また新たに生きていこうとする
その力を持つものだった。

だから開催できるようにしたい。

でも、私にはもうそのこと自体が
友にとって負担でしかないと
思っていた。

個展をするには本当にたくさんの
確認事項があって、1つ1つ
色々なことを考え、希望を聞き、
自分で決めていかないといけないことが
たくさんある。

でも今の友にはもう、
それはただの負担でしかなく、
友のやりたいことでないと感じていた。

アーティスト「翠」には
相方の「ソルト」さんという人がいて、
2人のアートを融合させた、
「幻想まんだら」という作品があった。

このソルトさんに作品展をお任せすることにし、

私は「山口泰美」という人を、
そして相方のソルトさんには、
アーティストとしての「翠」の
面倒を最期までみてほしい。

ソルトさんと私は友がいつまで
生きていられるかわからない中で、
お互いにお互いができることを
彼女の人として、アーティストとしての
命を預かる気持ちで取り組むことにしたのだ。

友にそのことを伝えた後、
作品についてどうすればいいか。
書いてもらった。

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そしてこの日以来、私は個展に関しては
お任せすることにして、
友の日々に時間を使うことにした。

数日後友はふいにこう書いてきた。

「ひっこしは 本当にする?」 

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「行くよ、行けるよ」

私は笑顔で友の顔を覗き込み
そう答えた。

それ以外、何をするっていうんだ。
必ず友は退院して家に行く。

私はそう信じてた。 

10月4日、

そして友の引っ越しは
友がICUにいる間に無事終わった。

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友が好きなブルー系のモロッコ模様の
カーテンを新しく新調して。

いつもゴキブリ見たかのように
驚いて怯えた顔をしてるか
貞子のようにどよんどよんと下を向いて
座っているか。

私のスマホを覗こうともしなかった友だけど、
このカーテンのついた部屋の写真を
見せたらチラっと。

チラット見たんですよ。

その日私はニヤニヤニヤニヤしながら。
見よった見よったよ。
と嬉しくてですね。

翌日5日、婦人科の主治医との
再発転移がないか診察を受ける前に
友に良い兆しが見えたことを
喜んでいたのでした。 

つづく 


by sarah_51 | 2019-03-08 21:24 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉚「暗闇」 


10月1日、友はまるで自ら生きる力を
放棄してしまったかのようにICUに入院した。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
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翌日、私と一緒に介助してくれてた
弥生さんとでICUに必要なものを届けに
入ってみると。

広いICUの仕切りのない部屋に、
友はベッドに座ってじっと動かず、
下を向いたまま。

一言でいうとその様子は、

「貞子がそこに座ってる」

かのような様子で、
漫画とかでは顔に縦線がついて、
どろどろした雰囲気の様子って
見たことがあったけど、

ほんとにそんななる人を初めて見たわ、、
っていうほど妖気出てます?
っていうほどおどろおどろしい雰囲気だった。

事前に私は脳外科の主治医と会い、
今回の緊急入院について
脳のCT結果など詳細を再度聞いていた。

おでき先生(脳外科医の友がつけたあだ名)の
話では、特に脳の出血や脳転移の拡大など
病的に変化はないようだとのことだった。

でも1つ先生が実はね、、、、と
言ってきたのは、

「リハビリの病院へ転院した時に、
 どうもステロイドの量を先方が誤って
 多く出してしまってたみたいなんだよね。。。」

と。。

つまり、例えば5mgのステロイドの量だったのを、
転院した際10mg近くに増えており、
そのことを知らなかったおでき先生は、
退院後ステロイドを減らすのに、
5⇒4⇒3と減らしたつもりが、
一気に10⇒4⇒3と減ってしまい、
そのことで痙攣などが出たのではないか。

という話だった。

なるほど。。

それもあるかも?
とは思うものの、
「先生、彼女うつが再発してないでしょうかね」
というのが私の問いかけだった。 

なぜなら、友はそもそもリハビリの病院へ
転院する頃からやたらと人を遠ざけており、

メールもメッセンジャーもFBも
さらにはツイッターなどすべてのSNSを
絶っていた。

それだけではなく、お友達らが何か
「手伝うことはない?」
なんて言おうものなら、
非情に強い抵抗を示したし

「誰にも会いたくない。」

という気持ちが日に日に強くなっていた。
合わせて、突如として、

「自分は何かとんでもないことをしたのでは?」

という恐怖感のようなものを
話すことがあって、それはちょっと
領収証がどこかへいったとか、
別に大したことがなくても、

「自分は犯罪者だ」

ということを言うこともあったからだ。

どんどん自分を追い詰めてる。。

そんな印象を少しずつ少しずつ
もっていたのだけど、
それがついにコントロールできなくなって
しまったのではないかとさえ
思うほど、友は心を閉ざしてしまった。

それはどれくらいかと言うと、

ずっと介助してきた弥生さんでさえ、
「ずっと無言で怒ってるのかと思うくらい、、」
と用事が済んだら返事も何もなく、
問いかけに返事もないとのことだった。

でも・・。

10月4日に友の引っ越しがもう決まっていた。

どうするか・・。
引っ越しできるか。
それともこのまま入院生活になってしまうのか。

すでに契約も済ませ、引っ越し業者との
やり取りや生活保護課の方への連絡など
様々な手続きが終わっていて、
あとはもう引っ越すだけという状態だった。

私はとにかく友に聞こう。

そう思って引っ越しが4日だけど、
準備そのまましていっていいかな。

と聞いてみた。

返事は下を向いたまま、

「どうでもいい」

と言っただけだった。

まぁ、そりゃそうよね。
今ICUだしー。
それどころじゃないわなぁ。

と思った私は、

「じゃとりあえず私やっておくね」

と書いておくにとどめた。

どこか私の中に、
「どうでもよくない」
友の気持ちがあるように思えて、
「引っ越ししない」
という選択肢が浮かばなかった。

それよりも導尿(おしっこを管で出している状態)
されたことを何か怒っているようだと
看護師さんからあり、友が何に怒っているのか。
わかりますか?

と尋ねられ、

「あ。子宮頸がんの術後から自分で出せなくなってたんですけど、
 少し自分で自尿が出るようになってきてたんです最近。
 だからまた導尿になってしまって、
 もう1度最初からやり直しになるのが怖いのかも」

と答え、友に筆談で一人で立てるようだったら
導尿はなくなること、1,2日ならまたすぐ
感覚が戻っていくから心配いらないことなどをお
説明してあげてくださいとお願いした。

筆談なら見たい時自分で読むだろう・・・。

脳になんら問題がなかったと聞いて、
私はなんであれ普段通り友と接することを
心に決めて日々過ごすことにした。

そして携帯を見ようとするたび、
ぶるぶる手が震え、目が飛び出したような
表情で怯えている友を見て、

「携帯持ってようか?」

と聞くとおずおずと渡してきた。

それはお願いしますという感じではなく
何かばっちいものを早く、早くどこかにやって!
という感じでぶるぶるしながらだった。

「大丈夫。もうカバンにしまったよ」

帰り際、私は友をハグしたけど、
反応はなかった。

でも少なくともなんとか私は
コミュニケーションが取れるようだった。

とにかく、

①友の知り合いには面会謝絶を伝える
②引っ越しをする
③退院後のケアについて調整する

という3つをすることにして、

一切友の引っ越し先や
状態についても見せないことを決めた。

なぜならそこには、
普通のお友達が想像するような
友はどこにもいなかったし、

きっと友も自分ではないと
思っていると思ったから。

とにかく友を守ろう。

そう思って着々とことを
進めることにした。 

つづく 







by sarah_51 | 2019-03-06 16:55 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉙「恐怖と逃避」


自らのルーツを知った友。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/

 

翌日友は朝から様子がおかしかった。

友は全く耳が聞こえない。
1歳の頃髄膜炎で完全に聴覚を失ったからだ。

でも私たちは毎日のように
メッセージでやり取りしていて、
その間合いや、言葉の使い方、
テンポや絵文字などの使い方など

色々なことから様子や気持ちを
察することができるようになっていた。

明らかに様子がおかしい。

そう思っていたが、
家に行こうか?と聞くと、

いや、いい。

という返事。

本人の意思を尊重したかったので、
行くことはあきらめたが、
その日友は午後から手話通訳ができる
弥生さんとランチに行く予定だった。

そのため、もしもの場合に
すぐ連絡をくれるよう弥生さんに状況を
伝えて友を託すことに。

前日奇跡的に会話も移動も
普通のようにできていた友だったが、
そのさらに前の日までは手の震えや
体の動かしずらさがあったので

ステロイドを減量し始めた友にとって、
万が一脳出血やけいれんなどの症状が
出るといけないと思っていた。

弥生さんが迎えに行くと、
友は脚を引きずるようにして出てきて、
どう考えても様子がひどかったらしい。

でも出かけるという友。
どこへ行きたいか弥生さんが尋ねると、
指文字で、「う・み」と答えたと。

手話にはアルファベットのように
1文字ずつ表現する指文字があるけれど、
普段の友なら「海」は波を表現するような
手話で楽し気に伝えるはず・・・。

弥生さんもそのつぶやくような様子に
不安があったようだがとにかく
連れていってくるということで。

私と弥生さんは友の様子を途中途中
やり取りしながら経過を見守っていた。

海へ行き、じっと海を眺めていたという友。

ランチにはブルブル震える手で
ポテトを食べてたらしい。

その様子に胸騒ぎがしていた。 

「弥生さん、病院で待ちああせできないかな」

帰りにそのまま自宅へ送るのではなく、
病院に連れてきてもらい、私とそこで
バトンタッチしよう。

そう提案したものの、
友がどうもそれはいいと言っているようで・・。

うーん、うーん。
そんな場合じゃない気がする。

そう思っていた矢先、
弥生さんから電話がかかってきた。

「さあらさん、やっぱり様子がおかしいみたい、、、」

助手席に乗せて移動しようというところらしかった。
手の震えがひどく、コミュニケーションも
だんだん取れなくなっているとのこと。

「呼吸はどう?反応はある??」

最悪の事態を考えての質問だった。

それは問題ないとのことで、
救急車を呼ぶように伝えたけれど、
そのまま連れていけそうだというので、
病院で落ち合うことに。

私はすぐ主治医の病院に電話し、
救急外来にかかりたい旨を伝えて、
急ぎ病院へ向かった。 

病院の救急外来入り口で私は
車いすを用意して待っていて。

弥生さんの車が到着してドアを開けると、
友の顔は真っ赤で手が震えていた。

さっとおでこに手をあてて、
熱がありそうと確認した後、 

立てる?

と聞くと移動しようとした友だけど、
脚が麻痺したようになっていて、
ぐにゃりとなっており支えて移動した。

弥生さんは家族の迎えがあるので、
あとは私が付き添うけん、大丈夫。

そう伝えて救急外来へ。

カバンから保険証や何やら出しながら
友に話かけるも、

ぎゅーーーーっと目をつぶってしまい
私の手話も口元も何も見ないため、
何も伝わらない。 

右手はものすごい痙攣で肘も
曲がったまま伸ばせない。

反対の脚は麻痺したかのように
脱力していて車いすから
落ちてしまっていた。 

なんとか肩を叩いて目を開けるように
伝えようとするけど全くダメ。

でもこの時私は、

「何かおかしい」

そう思っていた。
脳内出血が起きているなら、
その兆候と友の症状は
一致しなかったからだ。 

そう思った時、名前を呼ばれて、
救急外来の中に入ると脳外科の担当医は手術中とのこと。
若い先生が対応してくれた。

すぐに、

「身元引受人の今村です。」

と伝えた後最近の様子に加え、
今朝からの様子、昼のランチ中の様子を
弥生さんから聞いたものすべてを伝えた。

そして、

「先生、脳の問題か、心の問題か、
 両方から検査をお願いします」

そう伝えた。

痙攣をおこしている以上脳出血がないかなど、
脳転移の様子をまず検査してもらい、
それ次第で次を考えようということに。

先ほど立てた友はもう移動は一人で
できない状態になっていた。

一旦外に出て待っていてくださいと言われ、
検査が終わり、再度呼ばれて中に入った。

すると、カーテン越しに看護師さんが、

「やまぐちさーん、わかりますかー??」

と言っている。

カーテンを開けるとそこには、
先ほどの様子とは全く異なり、

瞳孔が開いたかのようにぼーっと
天井を見たまま、両手足すべてが
脱力してしまっている友がそこにいた。

看護師さんと医師から同時に、

「すみません、コミュニケーション取れますか?」

と言われた。

ちきしょう。
私が医療者じゃなかったら
こんな時にこんな状況見せられて
コミュニケーションなんてとれるか。

一瞬そう思ったけれど、
さっとすぐそばのモニターを確認した。

血圧と脈をみるためだ。
低い。 

目の上で手をかざしてみるが反応は
全くない。

試しに看護師さんと同じように
肩を叩いて同時に目の上に手をかざしてみる。

ダメだ。全く反応がない。

でも絶対わかるはず。
わかっているはずだ。

彼女は脳内の問題はない。
恐らく心の問題だ。

私の中にどこか確信があり、
友の手をとって、
自分で自分に手話をするように、

「ここは病院だよ」
「もう大丈夫」
「さあらだよ」
「わかる?」

とやった。

反応はなかったけれど、
そのままなんとか私と
わかる方法を取りたい。

そう思った時、
思い出したのだ。

友が子宮頸がんの手術後
麻酔から目が覚めるとき、
私がとった方法を。

看護師さんとはちがう。
私なりの友へのサインを。

そしてそれで友は、
「あれですぐわかった」
と言っていたその方法を。

そして私は、「ヤスミ~ン」
といつも通りに話しかけ、

眉の間のおでこの辺りを
こしょこしょくすぐった。

その次の瞬間、

友の目じりがじわ~~~っと
赤くなり、涙がにじんだ。
目が焦点があったのがわかった。

看護師さんが先生に向かって、

「意識戻りましたー。」

と言い、私はそのまま再度、
友の手を取って手話で、

「今、病院だよ。
 これから入院するよ。
 わたしも一緒だよ」

と声に出しながら伝えた。 

友がうんと小さくうなずいてくれた。

アルハムドリッラー!
アッラーフアクバル!!

「先生、本人に伝わりました。」

そう担当医の方を振り向くと、
白い紙に同じことをマジックで
書いてくれてた医師が、

「もうこれいらんかなー笑」

と言ってくれて、
ヤスミン、先生書いてくれてたよー!
よかったねー。移動するよー!!

と伝え病棟にあがることになった。

検査の結果、脳転移などは特に問題なかった。 

弥生さんは後でこの日のことを、
「あのまま死んじゃうかと思った、、、」
と言っていた。

それほどその様子はとても大変だった。

でも生きていることの方が
大変かもしれない。

友はここから深く深く、
真っ暗な谷底に自ら落ちてしまったような
日々を過ごすことになる。

まるでその人格を失ってしまったかのように。

つづく 



 








by sarah_51 | 2019-02-21 20:59 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉗「魂の安心」


「来年はない」
そう主治医に言われ非常に混乱と苦悩の
中にあった友。
友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/


全く耳の聴こえない友と
離れて会話するのに必須のスマホ。

それでさえ手の震えも強く、
文字を打つのも時間がかかっていた。

その日の朝、友は引っ越しに必要な書類を
無くしてしまったと思い込み、
慌ててメッセージしてきた。

でも実はその書類は私がすでに
預かっていた。それを写メと共に
伝えた後、こんなメッセージが。

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すごくスムーズで、
話してるかのようなテンポで
送られてきたメッセージだった。

私は何か彼女の決意を
スマホの中から強く感じていて。

次の言葉を見て泣いてしまった。

a0188838_21062140.jpg
「いんしゃーあっらー」とは
「神さまが望めば」
そして、
「シャハーダします」
は、
「信仰告白」と呼ばれ、
イスラム教徒になるという
意志を明確に示すものです。 

私はその彼女の強い意志を
その言葉に感じてもう
号泣してしまっていて。

隣の部屋にいた夫が変わりに
そのシャハーダの言葉を
打って証人となってくれました。 


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そして夫が彼女のムスリム名にと、
「ヤスミン」
とつけました。

それは私が「やすみ」という
彼女の名前の音と
アラビア語のジャスミンである
「やすみん」の音が似てるので
勝手にあだ名で呼んでいた名前だったけど。

でも実はこれにはもっともっと深い
彼女のルーツが隠されていたことに
この時私たちは何も知らずにいました。

友はこの時のことを、

「なんとも言えない安心感」

と言っていて、
彼女なりに、何もかもが
ああ、もう大丈夫なのだと
思うところがあって、

全くの迷いなく
「そうなりたい」
でも
「そうなればいいな」
でもなく、
「します」
という真っ直ぐな言葉で
決断したようだった。

そして私たちはその日の午後、
「やすみん」
となった彼女の涙を目にすることに。

それは私たちの想像を遥かに超えて、
ああ、、、そうだったのか、、と。
思う出来事でした。


つづく 





by sarah_51 | 2019-02-11 21:18 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉖「苦悩・混乱と出会い」


改めて主治医から「来年はない」と言われた友。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
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長い長い数時間を過ごした後、
友には現実が待っていた。

ここにその「苦悩」の1つがある。

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この時、脳外科の医師は
脳転移が放射線治療によって
縮小したということで脳浮腫に使用していた
ステロイドの量を少しずつ減らしていくと言っていた。

でもリハビリの病院からもらっていた
残薬がまだあったため、
残っている薬を使って減らしていくという
ちょっと面倒な方法をとってしまった。

そして医師が1回ごとの薬を全部ひとまとめに
処方という形にしてくれているとよかったが、
残っている薬を一部使うということもあって、
自分でその量を調整しなくてはならなかった。

この頃の友は病状なのか、
それとも気持ちの不安定さゆえなのか、
細かい話がなかなか理解できないことがあった。

でも本人は、

「忘れていくのが怖い」
「忘れていることに気が付かないのが怖い」

と病状が進み物事を忘れてしまうことに
とても恐怖感をもっていた。

この日のノート。

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赤い字で、そして震える手で
書き記したこのノートから、

その不安と恐怖と
「ちゃんとしたい」
という友の気持ちが強く伝わってくる。

同じように手帳にも薬を1つずつ
赤字で書き込んでいた。

私は彼女が今後1人暮らしをしていく上で、
サポートが必要になることを
考えてはいたけれど、

でもこの調子だとかなりのサポートが
必要だな、、、と心配だった。

ところがだ。

友はいつも寸でのところで
どこからともなく救いがある人だった。

この日私は10月から急遽お手伝いすることになった
訪問看護ステーションに行った。

それも本当にびっくりする展開で、
ただお茶のみに遊びに行ったら、
その場で採用になったのだけど。。。

そして事務所で説明を受けた後、

ふと思って訪問看護師さんに、
友のことを話してみたのだ。

友は介護保険で支援が使える年齢ではない。
でも「がんの末期」という診断があると、
40代で介護保険が使えるのだ。

だからお薬の管理とか、
日々の不安や混乱に対して、
何かお願いできないかと思ったのだ。

するとなんと!
そこにいた別のベテラン看護師さんが、

「わたし以前耳の聴こえない方を担当してました」

というではないか。。。

しかも友の不安をまだ会ったこともないのに、
察してくださって。 

まずは本人に会って、
了承してもらえたら翌日からでも
お手伝いに入れますよ!

と言ってくれたのだ。
そしてリハビリに関しては、
私が担当すればいいじゃない?と。

ありがたかった。。
本当に。

早速私は介護保険の申請や
ケアマネさんを紹介してもらって
連絡やら主治医に指示書を書いてもらえるよう
ソーシャルワーカーさんへ連絡しよう。

そうしよう。

これで10月4日の引っ越しに
向けて準備して。

あともう一息で
友がずっとずっと待ってた、

「アトリエで曼荼羅を描く」

を叶えてあげられる。

友の苦悩と心配はあるものの、
ほんの少し友の生活の
安心が見えたようでまたがんばろうと
思えた1日だった。

そして翌朝私は友の決断に
さらに驚かされるのだった。

つづく 









by sarah_51 | 2019-01-29 18:58 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」友とわたし㉕「友が聞きたかったこと」

改めて主治医から「来年はない」という
告知を受けた友。
*友は2018年12月30日亡くなりました。㉓からは友が
 亡くなってから振り返って記事を書いています。

私たちは近くの広い公園に向かって
ヨロヨロ歩いていた。

「あっちに行こう」

という感じで私がベンチのある方を
指さすと友は、

「時間は大丈夫?」

と聞いてきた。
その日私は旦那さんが夕飯がいらなくて
ゆっくりできたので、
大丈夫だよと歩き出した。

「1人になるのが怖い」

小さくそうつぶやくように友が言い、
うんうんと言うように肩をさすって
あそこに座ろうと返事をした私。

そこからどれくらいの時間
過ごしただろう。

たぶん4時間くらいいたかも。

泣くでもなく。
叫ぶでもなく。
怒るでもなく。
あれこれ話すでもなく。

ただ友と私はそこに座って、
何を話すでもなく、
何を見るでもなく、
ただ、そこにいた。

目の前で小さなお子さんとお父さんが
ボールで遊んでいて、
天気はまぁまぁ良かっただろうか。

緑の葉っぱが時々
風で揺れて、その合間から
光がさしたりなんだり。

ふっと風が吹くと
友と私はその葉っぱを見上げたり。
見ているというか、感じているというか。
感じてもいないかな・・。

診察室で友が主治医に余命を聞いた後、
私は先生に「末期の状態ということですね」
と再度確認していた。 

主治医はまだ抗がん剤をする気ではいたが、
希望すれば緩和ケアへ移行できるのかを
確認したかったからだ。

主治医の返事は
「そうですね。そのように捉えて良いと思います。
 治療に関しては次の検査で最終的に相談しましょう」
ということだった。

私は身近な人でこうやって余命などを
聞くのは友で3度目だった。 

1度目は旦那さんのばぁちゃん。
「残念ですが時間がもうあまりありません」
だった。

その日私は世の中の全ての色と言う色が
なくなったような感覚で外に出て、
何を見ても色を感じず、
「魂の色」
が世界中のどんな美しい花や
空や、緑や、モノよりも
美しいものか知り涙が止まらなかった。

2度目は昨年6月に亡くなった同級生だ。

急性骨髄性白血病で治療中、
病気は改善して元気になってきていた矢先、
脳出血で意識不明になり余命を伝えられた。

その時私はご主人から本人のラインに
本人の代わりに書かれた文章でそのことを知り、
隣の部屋にいた旦那さんが
飛んでやってくるほどその場で
倒れこんで泣いていた。 

3度目の友は・・・。

なぜか不思議と静けさだけがそこにあった。
私は友が余命を伝えられたというよりも、
どことなく自分がそう言われたような
感覚で、そこにいる子供もお父さんも、
そこにある木々もこの風を感じることも、

もうしばらくしたらなくなるのか。

そんな気持ちでじっと静けさだけが
そこにあった。

友を励まそうとか、
何か声をかけなくちゃとか、
いっしょにいてあげなくちゃとか。

そういった気持ちもなく、
不思議となんとなく何かに時の流れを
ゆだねるようにしてそこにいた気がする。

そしてふとなんとなくそうしたらいいような気がして、
友の頭を私の肩にもたれるように
抱き寄せて、肩にそっと手を置いてみた。

友はびっくりするくらい、
遠慮なく私の肩に寄りかかってきて、
そのままずっと動かなくなった。

友の身体からは哀しみや
辛さやしんどさとか、
そういった何も感じさせるものはなくて、
わたしと同じ、なんか「無」の感じだった。

ずいぶんと時間が経って、
日が傾いて来た頃、友がおもむろに
寄りかかっていた頭と体を起こして、
ノートを出した。

聞いてきたことは2つ。
「神さまのこと感謝のこと」

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私たちはゆっくり色々な話をした。

友が聞いてくるままに、
私は答え、また友が聞くという感じ。

神さまはある人に良いことを望むと、
その人を試練にかけます。

というところで、友はびっくりして、
「バチが当たった!ではない」
と書いている。

ずっとずっと自分を責め続けて、
ずっとずっと自分が犯罪者で、
ずっとずっとそのせいで病気になって
それで神さまも何もかもが
自分を見放したと思っていたようだ。

また友は小さい頃耳が聴こえなくなったことすら
母親に理解されず激しい虐待にあっており、
父親もまた疎遠なまま自殺していた。

人間関係でもたくさんの苦労をして
人が離れていくことも経験しつづけてきた。

どこか揺るぎないモノの触れた
感覚はなかったのかもしれない。 

私は神さまと人を比べることはできないけど、
神さまの忍耐強さと慈悲は底なしに
すごいぞ。自分が弱く、何もできないと
わかって初めて人は心から感謝をしたり、
悪かったなぁと思えるけど、
元気な時はなんでも自分でできると思い込んでいて、
なかなかそんなことを考える機会もない。

だから今友が自分がそんな存在だと思って
いるんだとしたら、神さまはなおのことそんな友を
絶対に見放したりしないし、
自分の弱さに気が付いた今はむしろ良いことの
始まりだよというような話をしたと思う。 

だとしたら、「必ずいい方向にいきます」。 

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この時の言葉を後に友は弥生さんにも
辛いとき指でなぞって話してくれたらしい。

私は励まそうとしたわけではなく、
ただ真実を伝えただけ。

これからの不安や起きうることではなく
この時私と友はそれまで以上に
「生きる」
ことについて話していたと思う。

だいぶ日が落ちかかってきて、
そろそろ行こうかとなり、
もう今日はお弁当買って行こう、
そうしようと言って、

近くのデパートの地下で
こないだ食べたら美味しかったよ
という弁当を見て、2人で同じ弁当を
買って車で家まで送り届けた。

じゃあまたね。

ご飯食べるんだよ。

と言いながら。
そして私はこの日のことが、
2日後に彼女の人生に大きな決断を
させるとは全く思いもしないまま

とりあえずご飯を食べれそうで
よかったと帰宅したのだった。 


つづく。 



 



by sarah_51 | 2019-01-12 22:03 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉔「告知」


リハビリ病院を退院し、
脳外科・婦人科の再診の日が来た友。
*友は2018年12月30日亡くなりました。㉓からは友が
 亡くなってから振り返って記事を書いています。


脳転移の放射線治療効果が出ているかを
聞くのがメインの診察だけど、
婦人科の受診もあって全体的に状況を
再度見直すための診察だった。 

退院前から少しずつ変化を感じていた友が
当日までにノートに自分が気になること、
聞きたいことを書いてきていた。

でも。

その診察当日の友はたった1週間で
まるで別人のようになってしまっていた。

ひと言でいうなら、

「岩」

のようになってしまっていた。

友とは病院の待合室で待ち合わせだった。
確かにそこに友はいた。
自宅からバスですぐなのでバスで来たと思う。

でもまるで岩のようになった友は、
まっすぐ前を向いたまま、
反応がほとんどなかった。

会話にならず、先生に聞きたいこと
書いてきた?と聞くと視線を変えることなく
ぶるぶる震える手でカバンを開けようとし、
手伝うとノートをおずおずと見せてきた。

少し前に書いていたのだろう。

それほど震えはないけれど、
それでも元々の友の字とは異なり、
緊張している様子が伝わってくる文字だった。 

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友は子宮頸がんと診断された時、
まだ初期のがんだと言われていた。

でも手術をした際、そのがんは想像以上に大きく、
悪性度の強さを医師も私も感じていた。 

脳転移がわかった際、
「治療をしなければ」
ひと月もたないだろうと言われたけれど、
それも治療ができたので、
友はそこまで自分の時間が短いとは
思っていなかったところがある。

治療がうまくいった場合でも、
多くの人が半年から1年のピークであると
説明を受けていたけれど、それも
あくまでも統計上のものであって、
長い人もいるし、もっと短い人もいるという
話だったし、

また脳外科の先生は主治医ではなく
あくまでも「脳」の状態から言っているだけであり、
主治医からいわゆる「余命」を聞いたことは
本人はこれまでなかったのだ。

診察当日血液検査と脳のMRI検査をして、
まずは脳外科から受診した。

なんとか友を立たせて診察室に入るも
先生とは会話にならない。

友には言わず先生にだけわかるようにして
私は先生に伝えた。

「この1週間で急激に震えと様子がおかしくて。
 転移の影響なのかどうなのかよくわからない状態です」

すると医師からの説明は驚くもので。

「MRIの結果はとてもよかったですよ。
 治療前と比べて浮腫みがかなり減っています。
 がんそのものも小さくなってます。
 薬を少し減らして調整したいと思います」

という返事だった。

それを聞いた友は目玉を大きく見開いて
驚いた様子だったが、それ以上の反応がなく
医師が薬の減らし方を説明する間、
何度となく

「わかりますか?」

と聞かれたがもはや後で説明しておきますとしか
言いようのない状態だった。
ノートに減らし方を書いてもらった。 

浮腫に使用していたステロイドを
少しずつ減らしていくというもので、
間違って飲むと急にけいれんなどを
起こしてしまう人がいるため、
十分注意するよう説明を受けた。 

診察室を出て待合室に座ると、
友はふっと力が抜けたように硬い岩から、
小石みたいになった。

私のその時書いてきたのは、

「余命を聞くことしか考えてなかった。
 おくすりとか、むくみとか、
 へらすとか、たずねられて、
 何も考えてなかったことに
 隠そうとしたことに 
 ごまかそうとしたことに
 申し訳ありません。」

だった。

いいんだよ、いいんだよと
言いながら肩をさすっていい子いい子と
頭を撫でた。 

少しほっとしたのだろう。

友の表情は次の婦人科主治医の
診察までの間にだいぶ緩んできた。

そして主治医に呼ばれ婦人科診察室へ。

「脳外科の先生の話は聞きましたか?」

という出だしに私も友も、
心少なからず軽い頷きをした。 

ところがその後聞いた言葉は、
そこからまるでジェットコースターで
急落下したようなものだった。

「腫瘍マーカーがかなり上がっています。
 かなり強い反応で他に転移がある可能性があります。
 次回首から下のCTを再度撮って確認します。」

さらに、、、転移・・・。 

場所として考えられるのは、
骨盤内(腹部)、骨、その他の内臓とのことだった。

何か聞きたいことはありますか?
という医師の言葉に友はおずおずと、
ノートに書かれた文章を指でなぞった。

「私の余命を」

のところで、手が震えていた。

主治医は友の方にしっかりと向いて、
ゆっくりとわかるように説明を始めた。
時折ノートにも書きながら。

「私たちはいついつというはっきりした
 時間がわかるわけではありません。
 でも検査結果などから言えるのは、
 少なくとも「年単位」では考えられない。
 ということです。
 
 数か月かもしれないしもう少し長いかも
 しれません。でも来年またこの同じ時期が
 あるかといえば残念ですがそれはないと
 思います。」

「来年は、、、、」
と再度聞く友に、

「ないということになりますね・・・」

と。

この日の診察で肺の転移に行うはずだった
抗がん剤の件は、一旦保留として、
10月5日に再度CT検査をしてから、
最終判断をすることになった。 

友の希望である「曼荼羅を描きたい」
という気持ちと、次の抗がん剤で
しびれが出るようであれば、
曼荼羅に支障が出るため希望しないという
ことも私の方から事前に聞いていた希望として
この時伝えた。 

友は聞いているような聞いてないような。
固まってはいないけれど、
それほど反応もなかったのもあって、

わたしと主治医は次回の診察日と検査時間を
スケジュール帳を見ながらすり合わせ、
友に次回はこの日ねと言って、
とにかくまた次回診察でという感じで、
先生に頭を下げて診察室を出た。 

そこから私はどうやって会計したり
なんだりしたか覚えていない。

恐らく私たちはずっと無言だった。

薬を薬局でもらってその後、
私たちはどちらが言うでもなく、
病院の前にある大きな公園に
ヨロヨロと歩いて行った。 

長い、長いあの日の時間を
私はとても強く覚えている。

つづく 

 



by sarah_51 | 2019-01-11 21:40 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」友とわたし㉓「始まり・ふるえ」


友のリハビリ病院退院が見えてきた。
*友は2018年12月30日亡くなりました。ここからは友が
 亡くなってから振り返って記事を書いています。

まさかの㉓とかまで書いてるので、
ここで少し整理しようと思う。

2018年
3月5日 子宮頸がんの手術のため入院 
3月24日 退院。
4月3日~抗がん剤治療スタート 
6月   きつくて抗がん剤ストップ。抗がん剤の味覚障害の友に言ったひとこと
7月   曼荼羅教室再会に向けてサロンで体力トレーニング開始。
8月1日 曼荼羅ワークショップ復帰。復帰の様子

8月15日 脳転移見つかる。脳転移の記事開始①
8月20日 救急車で病院へ。脳転移ブログ⑦遠隔で救急車を呼ぶ
9月3日 リハビリ病院へ転院。脳転移ブログ⑮合宿所で忍耐の日々
9月21日 退院。 

書きだしてみるとかなり目まぐるしいわ・・・。

転移が見つかってから荷物を整理して、
大処分大会をして・・・。
転院先で1日5千歩も病院内を歩いたりなんだり
させられて(いや自分でもしてw)いる間に、
私は、生活保護や年金、アパート探しにあれこれと
忙しくして。 

でもこの時9月の入院はあくまでも、
「脳転移の放射線治療」
の結果が出るのにひと月ほどかかるという
前提で、その結果が出るまでは本来は
退院できたんです。

でも友は当時歩くこともままならず、
当初車いす状態だったので、
とてもじゃないけど4階建ての4階の
アパートで猫3匹と暮らすなんて戻れずで。

一旦リハビリ病院へ行き、
その後また主治医の病院へ戻って、

①脳転移の部分が改善してるか検査する。
②子宮頸がんのその他の転移がないか検査する。
③肺転移に対して抗がん剤を行う。

という3つの予定が進行中だった。 

でもリハビリ病院にいる間ずっとずっと
友が言い続けていたのは、

「曼荼羅が描きたい」

ということ。

1人の時間がなかなか作れない病院ではなく
自宅で早く曼荼羅が一人で描きたい。

「誰にも邪魔されたくない」

という気持ちが強くなってた。

なので今後の治療については
何度となく話し合って、 
友の気持ちを聞いて、
可能な限りの時間と予後と
治療の効果とメリットデメリットを考えて。

「曼荼羅を描くために抗がん剤はしない」

という結論を改めて出した。 

よく誤解されがちだけど、

腫瘍を小さくするために治療するんじゃない。
画像でみる転移を改善したいから治療するんじゃない。

したいことがあって、
そのために治療するんだし、
やりたい、生きたいことがあるから

「それを選択する」も「それを選択しない」

も両方あるんだっていうこと。
それを友と私は何度も何度もじっくり話し合った。

話し合ったといっても私はもっぱら、

「やりたいと思うならとことんやったらいいよ。
 誰かがもう止めたらいいのにと思っても、
 友が「治療する」ということこそが希望で
 それをしたいならいくらでも付き合う。
 でも同じように「やめたい」先に理由があるなら、
 やめたっていいんだよ。」

と言っていただけ。
あとは情報の提供だったかなと思う。 

「抗がん剤をしない」

という結論が出たことを私は
戻る先の病院のソーシャルワーカーさんへ連絡し、
今後どうしたらいいかを相談した。

すごくキレる方で色々と
先生へも働きかけてくれて。 

でもやはり一旦退院しないと、
事前に先生のところへ入院中別の病院へ
相談へいくというのはできないとのこと。

まだ新しいアパートへは引っ越しができずで、
こうなったら4階のアパートへ帰ろう。
1週間くらいだ。きっと大丈夫だろう。

ということで、予定より早く、
9月21日退院した。 

退院後私はしばらく友の自由な時間を
あまり奪いたくなかったのと、
1人暮らしで実際何が困るか体験して
教えてもらおうということもあって、
あまり自宅へ行くことをあえてしなかった。

メッセージで日々やり取りをして、
あとは友も自由に出かけてたし、
友達とかと会ってたりしてた。

でも退院が決まるころから、
そして退院後から徐々に、、、
そして急速に、、。

「手のふるえ」

が目立つようになってた。
スマホの文字がきちんと打てないのだろう。

返事が常にコピペで同じものばかり。
「はい」
「わかりました」
「はい」
「はい」
「わかりました」
みたいになって、
明らかに文章も短くなった。 

放射線治療の効果はどうなんだろう・・。
新たに転移が出てきてるんだろうか・・・。

そして友の思考もやや支離滅裂な
感じになりつつあった。

時々あれ?と思うような返事が来たり、
それこないだ話した気がするんだけどっていう
ことが増えたり・・。

この時のことは数名のお友達などからも
変だよね、なんだろうねなんて
話も聞かれたりした。  

そしてついには、

「警察につかまる!」

というのをいきなり言うようになった。

例えばそれは何でもないことで、
書類をなくしたと思って慌てて
連絡してきて、

「ここにあるよー」

って写メで送ると、
「捕まる!?と思った。。。」
とかそんな感じで。

極端な思考になったかと思えば、
割とふつーにだらだらしてたりとか。

なんかスイッチはいる時と
そうでない時があるようで・・。 

病気のせいなのか何なのか。
ちょっと判別つかないことが多かったけど、
とりあえずは次の診察で聞こう。

そんな気持ちで見守ってる感じだった。
9月28日の再診でまさかそれが、
思いもよらない状態で友と会うとは
その時は全く考えもしなかったけど・・。

つづく。 





by sarah_51 | 2019-01-07 23:26 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉒「それは許されるんですか」


退院に向けて調整をしている頃。


事務的なあれこれが結構大変な時だったけど、
友は友で「退院」するということは、
1人暮らしをしないといけないわけで。

だから黙々とリハビリを頑張っており。
ここらでご褒美をあげてもいいのでは、、と
思うようになっていた。

そんな時、ちょうど!ほんとうに
グットタイミングで、

「ヤスミンにお土産があって」

と連絡があり。。

でもそれまで頑なに友は

「誰とも会いたくない」
「誰にも病院を教えないで」
「誰にも来て欲しくない」

と言っており・・・。 
まぁしかしこれはご褒美なので
致し方ないか、、と思って

「イケメン様が直々にお会いしたいと
 いいですか?イケメン様の方から
 直々にですよ!お会いしたいと!!」

と言うなり速攻OKが・・・
(全国の皆様大変申し訳ありませんw) 

というわけで。。。

某カフェにて極秘に「外出届」で会いまして。

イケメン様のお土産がこれ。 
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金沢の金箔!!! 

「もったいなすぎます、きゃー」

とかなんとか騒ぐ友。
もったいなくて使えない。。。
とかなんとかうるさい友に
イケメン様は、

「それならもうここで食べちゃいなよ」

という優しい諭し・・・。

「え~~!そんな、そんなああ・・アワアワ」
と言いつつ見よこの横顔だけど
ニタニタがわかる笑顔ww 

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しかもそんなお土産をもらえるとは
知らずに頼んだケーキにぴったりふぃっと♡ 

きゃーきゃー言う友を、
超絶あきれ顔の私がいましたが何か・・・ww

まぁ仕方ない。
というより、外出で人に会っても
元気に話せてよかったざますね。

という外出訓練を確認していた私。

実は会いに来てくれたのは
車椅子ユーザーのイケメン様。

自身も事故とはいえ、
何か月もの間、世間から離れて
リハビリ病院でずっと訓練し続けた
経験があって。

だから色々と、使う言葉がとても
友の心にぐっときてですね。 

お見舞とか言わず、
がんばってとも
あれはどうなのこれはどうなのとも
聞かず、でもちゃんと話を聞いてくれてて。 

友にもわかりやすいように
ゆっくり大きく話してくれて。

ってゆーか、喜びすぎだぞ友よ。

そして思い切りリハビリ用の服で
来たけどなwww 

ありがとうイケメン様。 


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でもね。
この日の後、彼女のこの自然な笑顔は
ある時までずっと。
出せなくなったんです。 

だからこの日のこの写真は
とても大切な笑顔写真になりました。 

つづく 


これまでの友と私の話はこちら。
↓↓↓ 






by sarah_51 | 2018-12-18 22:01 | 医療と健康  | Comments(0)