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カテゴリ:医療と健康 ( 56 )

「脳転移」と友とわたし㉟「訪問美容院の利用」


10月の緊急入院の前あたりから
どうも始まっていた対人恐怖。

プラス記憶もなんだか微妙に
なってしまっていた友。


友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/



でも少しずつ、少しずつ。
本当に少しずつ外へ出ることや
私以外の人と出くわしても
脚がすくんでしまわないように、

念入りにあそこにいる人は
こういう人でとか。
いっしょにいる時は
きっとみんな私が珍しくて
見てるだけだ、なにせ頭に
ほっかむりしてるからな!
わっはっは。

などなど。
少々強引な理由だが案外友は
少しずつそれで落ち着いて行って。

そして毎日私に

「髪伸びたね」
「もう切ろうか」

と言われるようになった笑。

何日か毎度言われ、
さらには伸びてるよねっていう
髪の毛の部分をなでなで
触られているうちに
さすがの友も、

「切らないとね・・」

という。
友はお気に入りの美容室が
あったんだけど、
そこは階段をけっこう
上がらないといけなくて、、。

どうする?
近所の美容室行く?
説明いっしょに行ってもいいよ。

と何度か言ってみるも。

「・・・・・」

と髪を触るばかり。

もう妄想で話すしかない!
と思い、

「だよねーやっぱさー
 初めての人だとどんな
 髪型にされるかわからんもんねー!
 どうするジョリっとされたりとか
 したらさー(*´▽`*)」

とか適当に言ってみたけど。
ず、、、図星だったらしくwww 

「そうそう。。。」

とか言うもので。

そうだそういえばあそこの
美容室は訪問美容してたはず!!
と思い、友の御用達だった美容室へ、
訪問美容ができるか美容師さんに確認。
ヘルパーさん看護師さんと
重ならない時間で予約お願い。

彼女の様子や断じて住所や
訪問に来たことを誰にも言わないで
いて欲しいことなどなど。

めっさナーバスになっている
友の言い分を伝えて。 

来てくれたいつもと同じ
笑顔の美容師さんー(*´▽`*) 

a0188838_19174724.jpg
まー来る前に何度も
今日だよね?
何時からだよね?
と確認されたです友にww 

楽しみにしてたんじゃーん笑 

訪問美容って別に病気がなくても
来てくれるらしい。
普通の人でもなかなか外に
行く時間がないとか。

または風邪の後でとても
しんどくて美容室どころではないが
髪型もひどくてめげるとか。

そういうのでもいいらしい。

でちゃんとブルーシート。
がっつり貼って
お掃除までしてくれちゃう。

a0188838_19180543.jpg
笑顔が硬いかもですが、
ちょーーーー久しぶりに
相当いい表情してくれてます!!! 

っていうかさ、
あなたその今の状態かわいいわよ。
ちょっと撮らせて。

と撮ったのがこれ。

a0188838_19182479.jpg
なんかアラレちゃん?
みたいでかわいかったんだけどな、、、ww 

ほらーかわいいやーん。
やめてー。

みたいな会話ができて。
楽しかったです。

とはいえこれは対人恐怖に対する
ちょっとしたリハビリも兼ねてたので。

最初だけいっしょにいたけど、
あとはさっさとお任せして
出てきちゃいました。

でも。
でもでもでも。

その後。かけたらしいのです。

a0188838_19344547.png
実は退院後曼荼羅を描こうとしたけど、
描けなかったんです。

友は点描画と曼荼羅を描いてたけど
曼荼羅の方がいろいろと
考えないといけないらしく。。。

「頭を使う・・・」

と描こうとしても
向き合えない時間がずっとありました。

だからふっと描こうかなと思って
描けたこの曼荼羅は、
自分が自分たる過去と今とを
つないでくれたような感じで。

「わたし」

と久しぶりに再会した
感覚だったのかもしれない。

なんだ、自分のままじゃん。
病気でどうかなっちゃったと
思ってたよ的な。。。

ここからぐぐっと友の様子が
良くなっていきました。

つづく 



by sarah_51 | 2019-05-16 19:41 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉞「対人恐怖と記憶」

10月1日に緊急入院してから
無事退院した友。 

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/

入院中からあった対人恐怖と記憶の問題は
1人暮らしを新居で始めた友にとって
色々な形で問題が起きることがあった。

最初の1週間は部屋からヘルパーさんと一緒に
ごみ捨てに出る時でさえ、近所の人がいるのを
目にすると、恐怖のあまりその場に
ふにゃふにゃと倒れこんでしまい、

私に急ぎ来てくださいと連絡が入ることが
多々あった。 

何か自分のことを話しているのではないか。
ごみ捨てのやり方や時間が悪いのではないか。
本当はここに来てはいけなかったのではないか。

行ってじっくり話を聞くとそういう
自分を責める言葉が多かった。

負担に感じることはしないでいい。

それが私の友の「安心」できる環境を
作ることだったので、しばらくはヘルパーさんだけで
ごみは捨ててもらうことに。

でも私もリハビリ担当日に家に行くと、なにが 
いると思ってた友がいきなりいない!!

ということがたまにあった。
原因は、、、

「洗濯」

友との当時の会話がこれ。

a0188838_12361309.png
a0188838_12362917.png

当時まだ歩くのがフラフラだっていうのに
なぜか自分で近所のコインランドリーに
行ってたっていう友・・・。

かんべんしろよー!!

と思いながらっていうか
どうやって調べたんだ!!
って思いながら迎えに行って。

いっしょに洗濯が終わるまで待って、
ふらふら~とぼとぼ~と歩く友と
ほぼ下着だけの洗濯物、、。

それコインランドリーで
急いで洗わないといけない量なのか、、
っていうほどの1日分かな?っていう
洗濯ものを持ってアパートに帰って。

ところが洗濯機をチェックしてみると
ちゃんと普通に動く。
何度やっても問題がない。

ちゃんと動くよと伝えて、
やり方も確認して・・。

でもこれを毎日のように
私と友は繰り返した。

やっぱり動かない。
いつの間にかコインランドリー。。。
また連れ戻して。

やっぱり動くよ洗濯機。
の繰り返し。

私が来た時洗濯機は使えばいいよ
と言っているけど、
きっと自分で自分のことは
したいのだろう。

いやいや毎日これを繰り返す
身にもなってくれたまえ友よ笑 

でも実はこのころ友は
私と医療者以外の人誰も
家に入れることを嫌がっていて。

買い物を火曜日毎週頼んでいる
弥生さんでさえ中には
入れてもらえなかった。

なので毎日でも行くしかないわけで。

かといって友も自分の記憶や
こういった問題を気にしてなかった
わけではなくて。

退院後2週間くらいたって
少しずつ生活に慣れてきた時、
自宅でいきなり転んだらしい。
椅子に座っていただけで
真横に転んで頭を殴打して。

急ぎ病院に連れて行った時の会話がこれ。

a0188838_12371370.png
話してたからこそ私が
呼ばれてじゃじゃジャジャンで
病院連れて行ってるんだけど笑 

自分で何を話したのか
何が起きたのか

一生懸命伝えたいと思ってるけど
伝えたのかさえも忘れてしまって
混乱してたり。

まぁおばあさんだと思えば
大したことないよわっはっは。
と友には笑っていたけど、

正直毎日なんか起きてないか
心配でいつもLINEを見てばかりいたよ。

でも友も覚えていることがあると
すごくほっとしてた。

a0188838_12364645.png
忘れていく自分と
覚えている自分。

友だって不安な中過ごしてる。
そして何より

「なにかやらかしてないか」

と自分をいつもいつも責めながら。

私は医療者としても友のこうした
様子はとても勉強になったし、
家族だったら何してんねんあんたー!
とイライラしてしまうことかもしれないけど
なんかこうそうではなく、

不思議なスタンスを持って
過ごすことができたような気がする。

それは最初に

①友の看取りまで責任をもって引き受ける
②友を改善させるのではなく私が環境を作る
③いろいろな人たちの手を借りながらやっていく

と決めていたからかもしれない。

自分がどの立ち位置で
何をすればいいのか。

友と関わる中で少しずつそれを
教えてもらっていたから。

そこだけやればいい。

っていうところがあったので。

こうやって少しずつ友は
自分を怖くない安心な世界の中で
取り戻していっているような気がした。

いいよね。
別に余命がどうだからって
焦らなくたっていいんだよ。

嫌だと思うこと負担に思うこと。
みんな手放して自由になればいいんだよ。


そして本当に少しずつ。
でも途中から飛躍的に 
友は恐らく人生で1番輝いて
自分らしくいれたんじゃないか。

そう思えるような月日を過ごすことになる。
そうなるまでにここからさらに1か月くらい
かかったけど。

つづく 





by sarah_51 | 2019-04-21 12:56 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉝「担当者会議をやめてよかったこと」


退院に向けて準備を始めた友。

 
友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/


病棟看護師さんが言い出したのか、
友が自分で聞いたのか不明だけど、
とりあえず、

「お友達といっしょなら」

という許可で病棟内や1階のお店まで
歩く許可が出た友。

あたりまえだけど緊急入院後、
10日くらいほぼ1割ほどの食事と
ベッド上か病室内のトイレ以外
全く動かなかった友の筋力はかなり落ちていて、

最初は病棟内を数メートル廊下歩いただけで
ふらふら~っと壁によりかかっていた。

でも私これでも理学療法士なんで笑 

疲れる手前で戻って毎日行って
いっしょに少しずつ距離を伸ばして。

その間に自宅の準備と、
訪問看護やケアマネさん、
ヘルパーさんなどの最終調整に入った。

これは友のアトリエ兼新居。

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退院後の友のヘルプはしばらくは
訪問看護師さんが朝夕毎日入って
お薬の管理や体調確認に来てもらうことに。
その他は、

月 ヘルパー食事2日分作る
火 弥生さんに買い物お願い・食事は前日のがあり。
水 ヘルパー食事2日分作る 
木 食事は前日のがあり 
金 リハビリ
土 リハビリ 
日 さあら 

リハビリって言っても私が担当なんだけど笑 

とにかく毎日をこうやって回していくことになった。

でもね。
介護保険で何かしたことある人は
わかると思うんですけどね。

ものすごい書類が多いんです。
本人への説明も多い。
確認も多い。 

それも退院初日から。
「担当者会議」
という名の関わる人たちがみんな
家に来てあれこれ話すんです。

とてもじゃないけど友に
それが対応できるとは思えなかった。

なぜならこのころ友は
以前の友達たちの名前も微妙で、
こういう人がお見舞いにってこれ
くれたよとか、
○○さんが会いたいって言ってたよ
とか伝えても、

その人そのものを思い出せなくて、
FBのアカウント見せたり、
ご本人から聞いたエピソードや
つながりを話すと、今度は
頭を抱えてまるでベートーヴェンですか!
っていう状態になってしまい、、、。

記憶があいまいになっていたんですよね。
脳の影響なのか、心が閉じてしまったので
過去のことからも離れてしまったのか。

先生もよくわからない状態で。

それだけじゃなくて、
「対人恐怖」
のような感じになっていて
カーテンはもちろんきちと隙間なく
締め切っていたけど

事前に説明して紹介してない人が
現れると全く無反応だったり、、。

なので、

「担当者会議」

を思い切ってやめて、
外の駐車場でそれは私を含めて
みんなでやって、友と話す時は、
友のことを伝える時間にしてもらった。

やっとの思いでたどり着いた退院の日。

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これね相当機嫌マシっていうか
いい感じの表情ですよ!!!笑 

だって入院中はずっとゴキブリ見たかのような
顔してましたからね、、。

この日のために私は友のプロフィールを
まとめた文章を用意して、
全部手話じゃなくても友はそれを
見ながら進行具合や何を確認してるのか
わかるように作って。

友がどんなところで生まれ、
どんな人生を歩み、
どんなことをしたいと思って
どんなものが好きで、
どんな色合いや食べ物が好みで
どんなことが気になるのか。

そんなことを事業所の人たちみなさんに
伝えました。 

このことは凄いその後の
関わってくださる看護師さんやヘルパーさんたちの
行動につながっていて、

友の好きな色のものでお薬入れを揃えてくれたり、
友の好きそうなものをこしらえてくれたり。

何より曼荼羅の展示会に行けるよう
いっしょにやっていこう!

っていう気持ちに溢れていて。

カルテや病院の情報じゃない
友のパーソナルなことを
しっかり伝えさせてもらって
本当によかったと思いました。 

そして11月の展示会に向けて、
私の役目はとにかく友の体を
回復させていくこと。

友が安心して過ごせるよう
日常の配慮をすること。

結局ほぼ毎日行くことになったけど。

でも本当に二人三脚という感じで
1人暮らしの耳の聴こえない
余命を宣告された友と過ごす
濃い日々が始まった。 

つづく 



by sarah_51 | 2019-04-21 12:24 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉝「改善するのは状況であってその人ではない」という視点をもって在宅の準備へ


少しずつ変化が出始めた友。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/


相変わらず私が帰りにハグすると、
ぎゅうっと爪を立ててくることに
変わりはなかったけど、

病院のスッタフの方たちと日中
筆談を通じて少しずつ長い会話が
できるになってきていた。

とはいえ、友の返事の多くが、

「先ほど体を拭いてもらい嫌な思いをさせて
 申し訳ありません」
「私は恐ろしいことをしました」
「申し訳ありません」

といった謝罪や自分を責める言葉も
まだまだ多く、またベッドから
ほとんど動こうとしていなかった。

ただ脳のMRIも問題がなく、
CTで全身の転移検査も特に変わりないと
された友は急性期の病院にそう長く
いれるわけではなかった。

退院しないといけない。

友には「自宅に行けるよ!行くよ!」
と言っていた私だけど
実際私は自分の身内ですら自宅で
看取った経験もなく、

ましてや耳の聴こえない
心を閉じ切ってしまった友の
一人暮らしをどう支えたらいいか。

その方法にやや悩んでいた。

もし私が1人暮らしなら、
いっしょに住めばいい。

でも事はそれほど単純ではなく
夫は私があれこれと友のために
時間と労力とお金やらなにやらを割き、
家のことが後回しになっていることに
いろいろと不満がいっぱいだった。

ヤスミンのところに行く。

というだけで不機嫌になることも
増えていて自宅でそういった話も
できないと感じていた。

そんな時、在宅ホスピスをしている
先生方の勉強会が開催されることを知り、
友の病院からも近かったので
セミナーを聞いてすぐ病院へ面会に
行けるなと思った私は早速申し込んだ。

この時スライドのある1行に目が留まった。

「改善するのは状況であってその人ではない」

というソーシャルワークの視点で
とらえた在宅ケアの考え方だった。

そして

「治すことはできなくても、
心地よくすることは常にできる。」

という緩和ケアの原点ともいえる
本のタイトルを紹介してくださっていて。

私はそうだ!これだ!
これをすればいいんだ!!

と自分の役割を見出すことができたのです。

友の入院中何度となく私は
心療内科を受診できないか、
心のケアをしてくれる認定看護師か
医師と彼女が話をする機会をもらえないか。
不安に対して何等かの薬などはないものか。

など病棟看護師や主治医などにも
伝えていた。

でも脳外科医は
「手術が専門なので、、、」
婦人科医は
「余命を聞いて受け入れられなかったのであれば、
 時間が解決するしかない」

というばかり。
なんとか認定看護師さんが話を
来てくれるようになったけど
本人はそれで良い変化を感じてるとか
話ができてよかったとかいう感覚は
全く持っていなかった。

それだけではない。

画像上なんら問題点が見つからなかった
彼女に対し、看護師によっては、
友が「演技している」「実際にはもっと動けるはず」
「自分でできることはしてください」

といったことを話す人も出てきた。

悔しかった。

救急外来で意識がなくなった時
彼女の震えやつっぱりながら歩く様子を見たとき、

確かに私も脳の問題じゃない。
心の問題が大きい。

そう思った。
でも友自身にこれ以上
なんの負担をかけられるというのか。

食事も1割も食べない。
カーテンをきっちり閉めて、
耳の聴こえない友が
ベッドにじっと座るか寝るか。
携帯もない。ネットもない。
誰とも会わない。

そんな生活を好んですると思うのか。

たとえ演技だとしても、
嘘だとしても、

「嘘をつかないといけない状態」

に陥っている友に何ができるか。
それを考えるのが医療じゃないのか。
福祉じゃないのか。

そう思っていたから。
だからこのセミナーに行って、

「変えるのは状況」「本人じゃない」

という言葉は、
そうだ、友にとって安心できる環境を
私が考えればいいんだ。

友にはそのままでいてもらえば
それでいいんだ。

そう強く思えたのです。

セミナーの講師でもあり時折お世話になっていた
緩和ケア医師で在宅ホスピスをしている先生に
友の住所近くで連携できそうな訪問医師や
緩和ケアに理解のある医師・看護師がいる病院等を
お聞きして、どう連携するか早速考えた。

在宅でお世話になる予定にしていた
ケアマネと私のパート先となる
訪問看護ステーションにも状況と私が
思うことを伝え、さっそく地域の緩和ケア病院と
連携できるよう働きかけてくれることに。

「退院しよう」
「できるよ」

それだけを胸にとにかくできる限りの
環境設定をあれこれ考えて実施した。

そして緊急入院から1週間が過ぎ、
週が明けた頃から友にもぐっと変化が出てきた。

ハグの後、爪を立てなくなったのだ。

というよりも自分から私と同時に
背中に手をまわしてそっとポンポンポンっと
叩いてくれるようになった。

またね。

と手話をすると目がうなずいているかのように
じっと私を見るようにもなった。

私の普段と同じあんなことあったー
こんなことあってー、これ美味しかったよな
会話にも時々目を向けたり、
私の携帯の写真をちらっと見ることも出てきた。 

絶対退院して、曼荼羅描いたり
個展にだって行けるようになるよ。

そう思いながら。
でも退院ってそう簡単じゃなかった。



つづく 












by sarah_51 | 2019-03-30 12:24 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉜「再発検査と奇跡の声」


10月1日緊急入院し、4日に友が入院中に引っ越しを終え、
5日に9月指摘されていた腫瘍マーカーの数値から、
非情に広範囲の再発転移が考えられると言われていた友。 

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/

その検査結果を聞く10月5日。

この日、友は万が一退院できた場合に、
担当するケアマネさんと訪問看護ステーションの
事業所長が面会に来る予定だった。

朝のうちに病院に行くと、
友の表情は硬く、手先がぶるぶる震えていて、
緊張のせいなのか脳転移のせいなのか、
看護師さんに聞いても別段昨日と変わりないという
返事だけだった。

ケアマネさんと訪問看護師さんも
主治医に挨拶したいという。

私は友の緊張しているような様子と、
ここ数日のコミュニケーションの
取れなさ加減から、友が今再発転移の
説明を万が一聞いたとしても、
到底受け止められないのではないか。

と心配していた。 

そこで事前に婦人科外来の看護師さんに
そのことを話して、ケアマネと訪問看護師さんの
挨拶も一緒に主治医と面談できないか。

友へどこまでどのように話すのかも
その際に先生と話しておきたい。

そうお願いした。

あまりにも人が変わったように
生きる気力を失くしてしまっている友のことを
外来看護師さんも聞いていたらしい。

そうね、その通りですね。
そうしましょう!ちょっと待っててください。

とすぐ主治医と話をしてくださって。
事前に友にはわからないように、
私はケアマネさんと話をするとだけ言って
病室を離れることにして先に主治医と会い、

その後部屋に戻る頃に友が外来に
呼ばれるよう時間調整してくれた。

その後ケマネさんと訪問看護師さんと一緒に
主治医の先生にお会いし、
私は先生に現状の友の様子を伝えて、
もし検査の結果再発転移があるとしても、

「がんは変わらずあります。
 でも思っていたようなものはありませんでした。
 経過をみましょう」

という具合に話してもらえないかと
先生にお願いした。

実際のところどうなのかは
特にこの時聞かなかった。
あくまでもこちらのお願いを伝え、
あとは先生にお任せすることにした。

病室に戻って友と外来に呼ばれるのを
待っていると、病棟看護師さんが呼びに来て、

「山口さ~ん、移動しましょうか」

と声をかけたが車椅子でないと
移動できないほど友の動きは
普通ではなかったし、
歩ける感じではなかった。

友は何も言わずただでっかく
目を見開いたまま、
婦人科外来の診察室に入り、
私もいっしょに脇の椅子に座った。

先生はCTの画像を友に見せながら、
ノートにも説明を書いてくれた。

「これがリハビリ病院へ行く前の写真。
 ここが肺で、転移のあるところです。

 次が今回の写真。
 これが肺ね。やっぱり転移はあります。
 ここと、ここも。
 でも前とほとんど変わってない感じです。
 
 そのほかには目立った転移は
 ありませんでした。
 腫瘍マーカーがとても高かったので、
 再発転移を心配したけれど、
 今のところ肉眼で確認できるがんは
 今までの脳と肺の他には見つからなかったです。」

と説明してくれた・・。

友は手をぶるぶる震わせながら、
目を大きく大きく開いて
驚いたようにうなずいき、
その表情はとても安堵したように
こわばった顔から普通の顔に
戻っているかのようだった。 

退院したらまた経過診察に来てくださいと
次回の検査予約をとり、
友は深々と頭を下げて診察室を後にした。

私は病棟に友の車いすを押して戻り、
ベッドに友を座らせた後、

「よかったね。安心したね」

と友に話しかけたけど、
壁の方を向いたまま
反応はなかった。

でもあのほんの一瞬だったけど、
安堵したような表情を見せた友を
思い出して、私は不覚にもここで

友が壁の方を向いているのをいいことに、
そして耳が聴こえないことをいいことに、

涙を止められなくなってしまった。
それはもう嗚咽しながらで、
腕で何度も涙を拭うけど、
全然止まらなくて・・。

友にわからないように、
見えないように泣いてたつもりだったけど
もうじっとそこで動けないほど
涙してしまった。

その時だ。

私の小さくきゅっと握った手に
ふっと手を添えて、
小さくぽんぽん、ぽんぽんと
私の手を叩いたりさすったり。

そして友はまっすぐ私の方を向いて
こう言ってきたのだ。

「さあらさんは愛の人。
 今までも。これからもずっと。
 
 私はさあらさんが思うように
 生きていく。
 それでいい。」

そう言ってまた壁の方を向いてしまった。

はっと思い出した。
それは友が以前私をイメージして描いたという
曼荼羅の作品についていた友の言葉だ。 

a0188838_18232272.jpg

私はノートに、

本当はすごくすごく心配で、
転移のことも心配でたまらなかったこと
今回のことも心配で
もっともっと早く友の心の変化に
気が付いてあげればよかったこと。
誰にも相談できなくてつらかったこと。

いろんな気持ちを殴り書きするかのように
泣きながら書いた。

友は横を向いたままだったけど
私はもう友は聞いてくれてると
確信していた。

a0188838_18255090.jpg
また明日来るよ。

そう言っていつものように
友にハグした。

これまで全く反応がなかった
帰りのハグだったけど、

友は私の背中に両手の指を
ぎゅーーーーぅっと
爪を立ててハグし返してきた。

不思議と何も痛くなかった。
背中にくっきり爪の後が
残っていたけど。

私は友が自分で爪を立てて
ぎゅっとするのをやめるまで、
ずっとそのハグを受け止めていた。

後から思うとこれはまるで、

ナウシカのテトに

「大丈夫。怖くない」

と手を出して噛まれてるシーンじゃないか?

と思うほど、友は色々な恐怖と
不安と、混乱と。

いろんな気持ちをそのハグに
表現してたのかなと思う。

退院したら一人暮らししないといけない。

でもきっとできる。
できるようにするよ。

そう思いながら具体的に
何をどう進めようか。

あれこれ考えを巡らせていた。

つづく 







by sarah_51 | 2019-03-13 18:48 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉛「ひっこしは 本当にする?」ICUでの日々。


救命センターに入院していた友。
数日後ICUの四人部屋へ移動した。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/

ほとんど会話をしなくなっていた友だけど、
病棟スタッフの筆談には必要範囲
応じるようになっていた。

a0188838_20532981.jpg
それでも、「生きる」という
気持ちが弱くなっているのか、
何も荷物を持ってきてほしくないようで、
必要な水も500mlのペットボトル2本。
その2本だけ買ってきてと言うだけで、

念のためと1本多く買ったり、
おやつなど持って行くと
押し返すようにして断ってきた。

4人部屋の廊下側のベッドの上にいるか、
脚をおろして座っているか。

人と会うことに非常に恐怖感を
あらわにしていた友は、
面会中もカーテンがほんの隙間でも
開いているとまるでゴキブリでも
見たかのような怯えた顔で、

じっとその隙間を見たり、
カーテンの下から同じ部屋の
患者さんへ向かう医療者の脚が
見えると、ずっとそれをコワゴワと
覗いて目で追っていた。

それでも10月4日の引っ越しを
私は進めてることや、
段ボールに何を入れたよとか、
色々な確認も必ず友に聞いてから
するようにしていた。

最も大切な確認。

それは11月に予定していた
友の個展だった。

「翠」

という名前で曼荼羅アーティストとして
活動していた友。

子宮頸がんはまさにその活動を
広げようとしていた矢先に見つかった。

この個展は彼女が病気と向き合い、
何よりも描きたいと思って
つらい治療もリハビリも乗り越えて
また新たに生きていこうとする
その力を持つものだった。

だから開催できるようにしたい。

でも、私にはもうそのこと自体が
友にとって負担でしかないと
思っていた。

個展をするには本当にたくさんの
確認事項があって、1つ1つ
色々なことを考え、希望を聞き、
自分で決めていかないといけないことが
たくさんある。

でも今の友にはもう、
それはただの負担でしかなく、
友のやりたいことでないと感じていた。

アーティスト「翠」には
相方の「ソルト」さんという人がいて、
2人のアートを融合させた、
「幻想まんだら」という作品があった。

このソルトさんに作品展をお任せすることにし、

私は「山口泰美」という人を、
そして相方のソルトさんには、
アーティストとしての「翠」の
面倒を最期までみてほしい。

ソルトさんと私は友がいつまで
生きていられるかわからない中で、
お互いにお互いができることを
彼女の人として、アーティストとしての
命を預かる気持ちで取り組むことにしたのだ。

友にそのことを伝えた後、
作品についてどうすればいいか。
書いてもらった。

a0188838_20535864.jpg
そしてこの日以来、私は個展に関しては
お任せすることにして、
友の日々に時間を使うことにした。

数日後友はふいにこう書いてきた。

「ひっこしは 本当にする?」 

a0188838_20534181.jpg

「行くよ、行けるよ」

私は笑顔で友の顔を覗き込み
そう答えた。

それ以外、何をするっていうんだ。
必ず友は退院して家に行く。

私はそう信じてた。 

10月4日、

そして友の引っ越しは
友がICUにいる間に無事終わった。

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友が好きなブルー系のモロッコ模様の
カーテンを新しく新調して。

いつもゴキブリ見たかのように
驚いて怯えた顔をしてるか
貞子のようにどよんどよんと下を向いて
座っているか。

私のスマホを覗こうともしなかった友だけど、
このカーテンのついた部屋の写真を
見せたらチラっと。

チラット見たんですよ。

その日私はニヤニヤニヤニヤしながら。
見よった見よったよ。
と嬉しくてですね。

翌日5日、婦人科の主治医との
再発転移がないか診察を受ける前に
友に良い兆しが見えたことを
喜んでいたのでした。 

つづく 


by sarah_51 | 2019-03-08 21:24 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉚「暗闇」 


10月1日、友はまるで自ら生きる力を
放棄してしまったかのようにICUに入院した。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/


翌日、私と一緒に介助してくれてた
弥生さんとでICUに必要なものを届けに
入ってみると。

広いICUの仕切りのない部屋に、
友はベッドに座ってじっと動かず、
下を向いたまま。

一言でいうとその様子は、

「貞子がそこに座ってる」

かのような様子で、
漫画とかでは顔に縦線がついて、
どろどろした雰囲気の様子って
見たことがあったけど、

ほんとにそんななる人を初めて見たわ、、
っていうほど妖気出てます?
っていうほどおどろおどろしい雰囲気だった。

事前に私は脳外科の主治医と会い、
今回の緊急入院について
脳のCT結果など詳細を再度聞いていた。

おでき先生(脳外科医の友がつけたあだ名)の
話では、特に脳の出血や脳転移の拡大など
病的に変化はないようだとのことだった。

でも1つ先生が実はね、、、、と
言ってきたのは、

「リハビリの病院へ転院した時に、
 どうもステロイドの量を先方が誤って
 多く出してしまってたみたいなんだよね。。。」

と。。

つまり、例えば5mgのステロイドの量だったのを、
転院した際10mg近くに増えており、
そのことを知らなかったおでき先生は、
退院後ステロイドを減らすのに、
5⇒4⇒3と減らしたつもりが、
一気に10⇒4⇒3と減ってしまい、
そのことで痙攣などが出たのではないか。

という話だった。

なるほど。。

それもあるかも?
とは思うものの、
「先生、彼女うつが再発してないでしょうかね」
というのが私の問いかけだった。 

なぜなら、友はそもそもリハビリの病院へ
転院する頃からやたらと人を遠ざけており、

メールもメッセンジャーもFBも
さらにはツイッターなどすべてのSNSを
絶っていた。

それだけではなく、お友達らが何か
「手伝うことはない?」
なんて言おうものなら、
非情に強い抵抗を示したし

「誰にも会いたくない。」

という気持ちが日に日に強くなっていた。
合わせて、突如として、

「自分は何かとんでもないことをしたのでは?」

という恐怖感のようなものを
話すことがあって、それはちょっと
領収証がどこかへいったとか、
別に大したことがなくても、

「自分は犯罪者だ」

ということを言うこともあったからだ。

どんどん自分を追い詰めてる。。

そんな印象を少しずつ少しずつ
もっていたのだけど、
それがついにコントロールできなくなって
しまったのではないかとさえ
思うほど、友は心を閉ざしてしまった。

それはどれくらいかと言うと、

ずっと介助してきた弥生さんでさえ、
「ずっと無言で怒ってるのかと思うくらい、、」
と用事が済んだら返事も何もなく、
問いかけに返事もないとのことだった。

でも・・。

10月4日に友の引っ越しがもう決まっていた。

どうするか・・。
引っ越しできるか。
それともこのまま入院生活になってしまうのか。

すでに契約も済ませ、引っ越し業者との
やり取りや生活保護課の方への連絡など
様々な手続きが終わっていて、
あとはもう引っ越すだけという状態だった。

私はとにかく友に聞こう。

そう思って引っ越しが4日だけど、
準備そのまましていっていいかな。

と聞いてみた。

返事は下を向いたまま、

「どうでもいい」

と言っただけだった。

まぁ、そりゃそうよね。
今ICUだしー。
それどころじゃないわなぁ。

と思った私は、

「じゃとりあえず私やっておくね」

と書いておくにとどめた。

どこか私の中に、
「どうでもよくない」
友の気持ちがあるように思えて、
「引っ越ししない」
という選択肢が浮かばなかった。

それよりも導尿(おしっこを管で出している状態)
されたことを何か怒っているようだと
看護師さんからあり、友が何に怒っているのか。
わかりますか?

と尋ねられ、

「あ。子宮頸がんの術後から自分で出せなくなってたんですけど、
 少し自分で自尿が出るようになってきてたんです最近。
 だからまた導尿になってしまって、
 もう1度最初からやり直しになるのが怖いのかも」

と答え、友に筆談で一人で立てるようだったら
導尿はなくなること、1,2日ならまたすぐ
感覚が戻っていくから心配いらないことなどをお
説明してあげてくださいとお願いした。

筆談なら見たい時自分で読むだろう・・・。

脳になんら問題がなかったと聞いて、
私はなんであれ普段通り友と接することを
心に決めて日々過ごすことにした。

そして携帯を見ようとするたび、
ぶるぶる手が震え、目が飛び出したような
表情で怯えている友を見て、

「携帯持ってようか?」

と聞くとおずおずと渡してきた。

それはお願いしますという感じではなく
何かばっちいものを早く、早くどこかにやって!
という感じでぶるぶるしながらだった。

「大丈夫。もうカバンにしまったよ」

帰り際、私は友をハグしたけど、
反応はなかった。

でも少なくともなんとか私は
コミュニケーションが取れるようだった。

とにかく、

①友の知り合いには面会謝絶を伝える
②引っ越しをする
③退院後のケアについて調整する

という3つをすることにして、

一切友の引っ越し先や
状態についても見せないことを決めた。

なぜならそこには、
普通のお友達が想像するような
友はどこにもいなかったし、

きっと友も自分ではないと
思っていると思ったから。

とにかく友を守ろう。

そう思って着々とことを
進めることにした。 

つづく 







by sarah_51 | 2019-03-06 16:55 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉙「恐怖と逃避」


自らのルーツを知った友。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/

 

翌日友は朝から様子がおかしかった。

友は全く耳が聞こえない。
1歳の頃髄膜炎で完全に聴覚を失ったからだ。

でも私たちは毎日のように
メッセージでやり取りしていて、
その間合いや、言葉の使い方、
テンポや絵文字などの使い方など

色々なことから様子や気持ちを
察することができるようになっていた。

明らかに様子がおかしい。

そう思っていたが、
家に行こうか?と聞くと、

いや、いい。

という返事。

本人の意思を尊重したかったので、
行くことはあきらめたが、
その日友は午後から手話通訳ができる
弥生さんとランチに行く予定だった。

そのため、もしもの場合に
すぐ連絡をくれるよう弥生さんに状況を
伝えて友を託すことに。

前日奇跡的に会話も移動も
普通のようにできていた友だったが、
そのさらに前の日までは手の震えや
体の動かしずらさがあったので

ステロイドを減量し始めた友にとって、
万が一脳出血やけいれんなどの症状が
出るといけないと思っていた。

弥生さんが迎えに行くと、
友は脚を引きずるようにして出てきて、
どう考えても様子がひどかったらしい。

でも出かけるという友。
どこへ行きたいか弥生さんが尋ねると、
指文字で、「う・み」と答えたと。

手話にはアルファベットのように
1文字ずつ表現する指文字があるけれど、
普段の友なら「海」は波を表現するような
手話で楽し気に伝えるはず・・・。

弥生さんもそのつぶやくような様子に
不安があったようだがとにかく
連れていってくるということで。

私と弥生さんは友の様子を途中途中
やり取りしながら経過を見守っていた。

海へ行き、じっと海を眺めていたという友。

ランチにはブルブル震える手で
ポテトを食べてたらしい。

その様子に胸騒ぎがしていた。 

「弥生さん、病院で待ちああせできないかな」

帰りにそのまま自宅へ送るのではなく、
病院に連れてきてもらい、私とそこで
バトンタッチしよう。

そう提案したものの、
友がどうもそれはいいと言っているようで・・。

うーん、うーん。
そんな場合じゃない気がする。

そう思っていた矢先、
弥生さんから電話がかかってきた。

「さあらさん、やっぱり様子がおかしいみたい、、、」

助手席に乗せて移動しようというところらしかった。
手の震えがひどく、コミュニケーションも
だんだん取れなくなっているとのこと。

「呼吸はどう?反応はある??」

最悪の事態を考えての質問だった。

それは問題ないとのことで、
救急車を呼ぶように伝えたけれど、
そのまま連れていけそうだというので、
病院で落ち合うことに。

私はすぐ主治医の病院に電話し、
救急外来にかかりたい旨を伝えて、
急ぎ病院へ向かった。 

病院の救急外来入り口で私は
車いすを用意して待っていて。

弥生さんの車が到着してドアを開けると、
友の顔は真っ赤で手が震えていた。

さっとおでこに手をあてて、
熱がありそうと確認した後、 

立てる?

と聞くと移動しようとした友だけど、
脚が麻痺したようになっていて、
ぐにゃりとなっており支えて移動した。

弥生さんは家族の迎えがあるので、
あとは私が付き添うけん、大丈夫。

そう伝えて救急外来へ。

カバンから保険証や何やら出しながら
友に話かけるも、

ぎゅーーーーっと目をつぶってしまい
私の手話も口元も何も見ないため、
何も伝わらない。 

右手はものすごい痙攣で肘も
曲がったまま伸ばせない。

反対の脚は麻痺したかのように
脱力していて車いすから
落ちてしまっていた。 

なんとか肩を叩いて目を開けるように
伝えようとするけど全くダメ。

でもこの時私は、

「何かおかしい」

そう思っていた。
脳内出血が起きているなら、
その兆候と友の症状は
一致しなかったからだ。 

そう思った時、名前を呼ばれて、
救急外来の中に入ると脳外科の担当医は手術中とのこと。
若い先生が対応してくれた。

すぐに、

「身元引受人の今村です。」

と伝えた後最近の様子に加え、
今朝からの様子、昼のランチ中の様子を
弥生さんから聞いたものすべてを伝えた。

そして、

「先生、脳の問題か、心の問題か、
 両方から検査をお願いします」

そう伝えた。

痙攣をおこしている以上脳出血がないかなど、
脳転移の様子をまず検査してもらい、
それ次第で次を考えようということに。

先ほど立てた友はもう移動は一人で
できない状態になっていた。

一旦外に出て待っていてくださいと言われ、
検査が終わり、再度呼ばれて中に入った。

すると、カーテン越しに看護師さんが、

「やまぐちさーん、わかりますかー??」

と言っている。

カーテンを開けるとそこには、
先ほどの様子とは全く異なり、

瞳孔が開いたかのようにぼーっと
天井を見たまま、両手足すべてが
脱力してしまっている友がそこにいた。

看護師さんと医師から同時に、

「すみません、コミュニケーション取れますか?」

と言われた。

ちきしょう。
私が医療者じゃなかったら
こんな時にこんな状況見せられて
コミュニケーションなんてとれるか。

一瞬そう思ったけれど、
さっとすぐそばのモニターを確認した。

血圧と脈をみるためだ。
低い。 

目の上で手をかざしてみるが反応は
全くない。

試しに看護師さんと同じように
肩を叩いて同時に目の上に手をかざしてみる。

ダメだ。全く反応がない。

でも絶対わかるはず。
わかっているはずだ。

彼女は脳内の問題はない。
恐らく心の問題だ。

私の中にどこか確信があり、
友の手をとって、
自分で自分に手話をするように、

「ここは病院だよ」
「もう大丈夫」
「さあらだよ」
「わかる?」

とやった。

反応はなかったけれど、
そのままなんとか私と
わかる方法を取りたい。

そう思った時、
思い出したのだ。

友が子宮頸がんの手術後
麻酔から目が覚めるとき、
私がとった方法を。

看護師さんとはちがう。
私なりの友へのサインを。

そしてそれで友は、
「あれですぐわかった」
と言っていたその方法を。

そして私は、「ヤスミ~ン」
といつも通りに話しかけ、

眉の間のおでこの辺りを
こしょこしょくすぐった。

その次の瞬間、

友の目じりがじわ~~~っと
赤くなり、涙がにじんだ。
目が焦点があったのがわかった。

看護師さんが先生に向かって、

「意識戻りましたー。」

と言い、私はそのまま再度、
友の手を取って手話で、

「今、病院だよ。
 これから入院するよ。
 わたしも一緒だよ」

と声に出しながら伝えた。 

友がうんと小さくうなずいてくれた。

アルハムドリッラー!
アッラーフアクバル!!

「先生、本人に伝わりました。」

そう担当医の方を振り向くと、
白い紙に同じことをマジックで
書いてくれてた医師が、

「もうこれいらんかなー笑」

と言ってくれて、
ヤスミン、先生書いてくれてたよー!
よかったねー。移動するよー!!

と伝え病棟にあがることになった。

検査の結果、脳転移などは特に問題なかった。 

弥生さんは後でこの日のことを、
「あのまま死んじゃうかと思った、、、」
と言っていた。

それほどその様子はとても大変だった。

でも生きていることの方が
大変かもしれない。

友はここから深く深く、
真っ暗な谷底に自ら落ちてしまったような
日々を過ごすことになる。

まるでその人格を失ってしまったかのように。

つづく 



 








by sarah_51 | 2019-02-21 20:59 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉗「魂の安心」


「来年はない」
そう主治医に言われ非常に混乱と苦悩の
中にあった友。
友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/


全く耳の聴こえない友と
離れて会話するのに必須のスマホ。

それでさえ手の震えも強く、
文字を打つのも時間がかかっていた。

その日の朝、友は引っ越しに必要な書類を
無くしてしまったと思い込み、
慌ててメッセージしてきた。

でも実はその書類は私がすでに
預かっていた。それを写メと共に
伝えた後、こんなメッセージが。

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すごくスムーズで、
話してるかのようなテンポで
送られてきたメッセージだった。

私は何か彼女の決意を
スマホの中から強く感じていて。

次の言葉を見て泣いてしまった。

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「いんしゃーあっらー」とは
「神さまが望めば」
そして、
「シャハーダします」
は、
「信仰告白」と呼ばれ、
イスラム教徒になるという
意志を明確に示すものです。 

私はその彼女の強い意志を
その言葉に感じてもう
号泣してしまっていて。

隣の部屋にいた夫が変わりに
そのシャハーダの言葉を
打って証人となってくれました。 


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そして夫が彼女のムスリム名にと、
「ヤスミン」
とつけました。

それは私が「やすみ」という
彼女の名前の音と
アラビア語のジャスミンである
「やすみん」の音が似てるので
勝手にあだ名で呼んでいた名前だったけど。

でも実はこれにはもっともっと深い
彼女のルーツが隠されていたことに
この時私たちは何も知らずにいました。

友はこの時のことを、

「なんとも言えない安心感」

と言っていて、
彼女なりに、何もかもが
ああ、もう大丈夫なのだと
思うところがあって、

全くの迷いなく
「そうなりたい」
でも
「そうなればいいな」
でもなく、
「します」
という真っ直ぐな言葉で
決断したようだった。

そして私たちはその日の午後、
「やすみん」
となった彼女の涙を目にすることに。

それは私たちの想像を遥かに超えて、
ああ、、、そうだったのか、、と。
思う出来事でした。


つづく 





by sarah_51 | 2019-02-11 21:18 | 医療と健康  | Comments(0)

「脳転移」と友とわたし㉖「苦悩・混乱と出会い」


改めて主治医から「来年はない」と言われた友。

友は2018年12月30日に亡くなりました。
看取りとその後はこちら→https://sarah51.exblog.jp/i31/


長い長い数時間を過ごした後、
友には現実が待っていた。

ここにその「苦悩」の1つがある。

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この時、脳外科の医師は
脳転移が放射線治療によって
縮小したということで脳浮腫に使用していた
ステロイドの量を少しずつ減らしていくと言っていた。

でもリハビリの病院からもらっていた
残薬がまだあったため、
残っている薬を使って減らしていくという
ちょっと面倒な方法をとってしまった。

そして医師が1回ごとの薬を全部ひとまとめに
処方という形にしてくれているとよかったが、
残っている薬を一部使うということもあって、
自分でその量を調整しなくてはならなかった。

この頃の友は病状なのか、
それとも気持ちの不安定さゆえなのか、
細かい話がなかなか理解できないことがあった。

でも本人は、

「忘れていくのが怖い」
「忘れていることに気が付かないのが怖い」

と病状が進み物事を忘れてしまうことに
とても恐怖感をもっていた。

この日のノート。

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赤い字で、そして震える手で
書き記したこのノートから、

その不安と恐怖と
「ちゃんとしたい」
という友の気持ちが強く伝わってくる。

同じように手帳にも薬を1つずつ
赤字で書き込んでいた。

私は彼女が今後1人暮らしをしていく上で、
サポートが必要になることを
考えてはいたけれど、

でもこの調子だとかなりのサポートが
必要だな、、、と心配だった。

ところがだ。

友はいつも寸でのところで
どこからともなく救いがある人だった。

この日私は10月から急遽お手伝いすることになった
訪問看護ステーションに行った。

それも本当にびっくりする展開で、
ただお茶のみに遊びに行ったら、
その場で採用になったのだけど。。。

そして事務所で説明を受けた後、

ふと思って訪問看護師さんに、
友のことを話してみたのだ。

友は介護保険で支援が使える年齢ではない。
でも「がんの末期」という診断があると、
40代で介護保険が使えるのだ。

だからお薬の管理とか、
日々の不安や混乱に対して、
何かお願いできないかと思ったのだ。

するとなんと!
そこにいた別のベテラン看護師さんが、

「わたし以前耳の聴こえない方を担当してました」

というではないか。。。

しかも友の不安をまだ会ったこともないのに、
察してくださって。 

まずは本人に会って、
了承してもらえたら翌日からでも
お手伝いに入れますよ!

と言ってくれたのだ。
そしてリハビリに関しては、
私が担当すればいいじゃない?と。

ありがたかった。。
本当に。

早速私は介護保険の申請や
ケアマネさんを紹介してもらって
連絡やら主治医に指示書を書いてもらえるよう
ソーシャルワーカーさんへ連絡しよう。

そうしよう。

これで10月4日の引っ越しに
向けて準備して。

あともう一息で
友がずっとずっと待ってた、

「アトリエで曼荼羅を描く」

を叶えてあげられる。

友の苦悩と心配はあるものの、
ほんの少し友の生活の
安心が見えたようでまたがんばろうと
思えた1日だった。

そして翌朝私は友の決断に
さらに驚かされるのだった。

つづく 









by sarah_51 | 2019-01-29 18:58 | 医療と健康  | Comments(0)